タイのお寺で修行中、アメリカの大学教授だという日本人の方が訪ねて来て、タイ仏教について色々と質問をされた。そして、瞑想によって着実に涅槃や悟りへと向かう、みたいな意味のことを私が言った時、その方が、悟り? はあ~ん? あなた、悟れると思ってるんだ、あ、そう、ふ~ん、うふふ、といった反応をされた。
言葉足らずだったことは重々、承知だ。その時の私の経験と力量と表現力がそれまでだったのだから、あの時、こう言えば良かったと、今の時点で悔やんでも仕方がないということは、何度も書いた通りだ。
ただ、当時はヴィパッサナ瞑想どころか、テラワーダ仏教についても、まだ日本では詳しく知られておらず、私がタイでの修行後に、インドのブッダガヤに駐在中、日本寺に坐禅をしに来た日本人青年に、今、簡単に手に入るヴィパッサナ関係の日本語書籍は、「ミャンマーの瞑想」(国際語学社)くらいだと伝えると、彼からその後、ゴエンカ師の瞑想センターに行ってみましたが、ご存知ですかという便りが来た、そんな時代だった。
ちょうどその頃から、日本ではスマナサーラ長老の日本テーラワーダ仏教協会の飛躍的な活動もあって、ヴィパッサナ瞑想は瞬く間に有名になり、その他のいろんなテラワーダ式の瞑想方法も相次いで紹介され出した。
それは、インターネットが普及して行く時期とも軌を一にしていて、その頃からいろんな人がウェブ上で、この瞑想法はどうだとか、あの系統では駄目だとか、いろんなことを言い合い出した。ちょうどヴィパッサナ瞑想が日本で広まる前に、禅の修行のあれこれについて、自分がどれだけ参禅してるかとか、あの坐禅方法がどうだとか、坐禅好きのみんなが口々に、好きなことを言っては我を張り合っていたのと同じように。
三橋ヴィプラティッサ比丘が訳した「観息正念」の解説を書いておられるサンティカーロ比丘が、アーナパーナ瞑想には16ステップあるが、ステップの先に進むことが重要なのではなく、また先に進まなければ涅槃が得られない訳でもない、ある場合には第1ステップだけで十分かも知れず、肝心なのは苦(ドゥッカ)の消滅と、それによって我々の人格が陶冶されることだと言っておられる。
そう、坐禅も瞑想も、仏教における手段であって、決して目的ではないはずだ。