だけど、やっぱり数息観。 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 お坊さんになってすぐの頃、小僧修行させて頂いたお寺で坐禅の方法を教えてもらった。天台宗の坐禅止観は、まず坐って呼吸を数え、呼吸に集中する数息観(すそくかん)に始まり、いずれ一心三観の境地に至る、らしいのだが、最初は呼吸を数えるだけでも大変で、なかなか上手く集中できなかったものだ。

 その後、タイで修行させて頂いた時にヴィパッサナ瞑想を知り、数を数えずに呼吸に集中する方法も、何とか覚えた。

 ところが禅の本、特に曹洞宗の本などを読んでいると、どうやら曹洞宗の坐禅である只管打坐(しかんたざ)では、呼吸に集中することに重きを置かないような気配なので、タイの次に赴任した、インドのブッダガヤにある日本寺に巡礼に来た、曹洞宗の若いお坊さんにそのことを聞いてみた。

 そうしたらそのお坊さんの曰くには、実を言うと、私の師匠などは、数息観に重きを置かないどころか、呼吸に集中するということ自体を否定しております、ただ坐る、ひたすら坐る、その姿そのもが坐禅だと教えられましたとのことだった。

 それはすごい、そうなるとこれはもう、その方法や考え方の是非はともかく、本来のブッダの瞑想法とは、最も対極にある瞑想法ではないか、などと言うと禅者の方のお叱りを受けるだろうけれど、とにかくそんなこともあって、日本では数息観というものは、初心者向けの坐禅方法だと思われている節がある。

 けれど呼吸への集中方法であるアーナパーナ・サティをブッダが説いた経典を、子細に読んで思うことは、丹念に丹念に呼吸を追い、観察して悟りに至る瞑想法を、後世の人がそれぞれに工夫して工夫して、たとえば数息観だとか、ヴィパッサナ瞑想のラべリングだとかがある訳で、数息観はやっぱり大事に大事に修行すべき方法なのではないのかなあ?

                        おしまい。