これはインドのブッダガヤにある日本寺の駐在同期・H師に聞いた話なので、他宗についての又聞きだから、細部の間違いがあればご容赦ください。
その宗派のあるお坊さんが、ハワイの別院に赴任したら、日系社会の信者さんたちは、日本語を話す人もたくさんいるのに、絶対に英語しか話してくれなかったそうで、そこでそのお坊さんはいたく発奮して、ついに上手に英語が話せるようになったんだそうな。
今度は私の話。タイで修行中のお寺に、インドでチベット密教の修行を終えてきたばかりの真言宗のお坊さんが泊まりに来られて、いやあ、タイは英語が通じませんねと仰った。日本のことを思えば、雑貨屋のおばちゃんだって、英単語を口にしてくれる率はずっと高いと思うが、まあ、確かにインドよりは英語が通じにくいかも知れない。
そうしたらタイ語で通訳して差し上げてる私に、その方の仰った言葉が、「タイ語って簡単そうですね」。タイ語は単語自体は短いから、拙い会話なら言葉も短くなるが、その短い言葉の組み合わせによって文章を作るから、本当は英語やヒンディー語よりも、ずっと習得が難しいと思う。私がカタコトの短いタイ語しか話せなかった頃の話なので、しょうがないとは思うものの、ほっといてちょうだい。
さて、昔のブッダガヤ日本寺の駐在主任だった三橋ヴィプラティッサ比丘は、得意の英語を駆使して西洋人に法を説いておられたが、失礼ながらその英語は、英語の下手な我々でも分かるほどにブロークンだった。けれどその独自の英語は、我々の文法通りの下手くそな英語よりも、はるかに十二分に西洋人に通じ、そして大好評で、語学というものの何たるかを、私はそのお姿を見て学ばせて頂いたように思う。
もっとも三橋師は「仏教英語」についてはどこかで学んだようなことも仰っておられた。日本寺の参禅者に対するお知らせの手紙の呼びかけには、「all yogi」などと書いておられて、なるほどと思ったものだ。
私は日本で発行された仏教英語辞書を持っているのだが、めったに使ったことがない。その本は主に日本語や漢字の仏教語の意味を、英語の文章で説明したもので、実際に海外の仏教界で使われている端的な用語を教えてくれる物ではないからだ。
たとえば「法話」という言葉を英訳すると、「sermon」となる。仏教英語にはキリスト教用語を援用したものも多いが、sermonもキリスト教の説教を意味する言葉だ。「幸いなるかな貧しき者よ」で始まるイエス・キリストの「山上の垂訓」を英語で言うと、「the sermon on the mountain」となる。
仏教でも、ブッダのサルナートにおける最初の説法、「初転法輪」を英語で「the first sermon」などと言うが、仏教の「法話」を普通に軽く英語で言う時、実際の現場では「Dhamma talk」などと表現することの方が多い。こうした現場で使われる仏教英語を解説した入門書というものは、あるのかも知れないが、私は知らない。それを自分で編纂するほどの蓄積や能力も、私にはまだない。