得度した後、本山での行を終え、正式なお坊さんの資格を得た後に預かって頂いたお寺に年配の僧侶が勤めておられて、事あるごとに、そんな仕事は君らの仕事だ、それも修行の内だ、僕らはもう修行は済んだからね、と言って冗談っぽく笑う。
このお坊さんは良い人だったし、それほど深い意味もなくこの言葉を仰っていたのはよく分かりつつも、いつもこの言葉を聞くたびに、修行が済む、修行が終わる、という言葉は正しい日本語なのだろうかと、疑問に思ったものだ。
その後、タイで修行させて頂いて、テラワーダ仏教ではお坊さんは得度すれば後は無条件に「お坊さん」であり、いかに修行を進めるかは各人に任されていると知った。もちろん我流で自分勝手に修行して良いという意味ではないし、お坊さん同士の間には序列も法階もあるけれど、少なくとも「お坊さんであること」と「修行していること」は、常にイコールだ。
冒頭に、「本山での行を終え、正式なお坊さんの資格を得た後に…」と敢えて書いてみたが、本当はこういう言い方はおかしいわけで、どんなに日本の各宗派の修行のシステムが、資格を取るための履修課程のカリキュラムのように見えたとしても、修行とはお坊さんの資格や免許を取るための、教習所ではない。
人間は一生が修行だよ、みたいな大げさな言い方とはまた別に、もっとごく普通に、お坊さんにとっては一生が修行であり、たとえば日本仏教における教師資格の取得も、あるいは坐禅も勤行も、長い長い修行の過程における一つの経験に過ぎず、突き詰めれば、ひとつずつ、少しずつ心を整えて行くというだけの、一生続く丹念な作業こそが、修行という言葉の本来の意味だ。
「アジアのお坊さん」本編
もご覧ください!!
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