得度して間もない頃のこと、正式に本山に上がる前に小僧修行させて頂いたお寺に、ご縁のある一人のお坊さんが遊びに来られた。その人はもともと手相見か何かをされていて、修行のために得度したとのことで、自分の数珠を見せながら、「これはお座主から直々に戴いたお数珠でねえ…」と仰った。
あれ? それはもしかして、私が本山の集団得度で戴いたのとおんなじ数珠ではないのかな? 確かに本山得度の戒師はお座主だから嘘ではないけれど、物は言いようだなあと、まあ、その時は経験も浅いことだから、その方に対して大変失礼なことを思ったものだ。
で、私がほんの一回だけお会いしたことがあるだけの、タイ人の信者も多い日本人上座部僧のアーチャン・カベサコ師のことを何度もブログに書くのも、有名人との一回きりの邂逅を自慢げに語る一般人の心境と同じかなあと、自戒してみたりもする。
得度して、小僧をして、本山での修行を終えて、タイで修行させて頂いていた時に、ある日本人の篤信者のお宅で、カベサコ師を含む、他の日本人上座部僧たちと一緒にお供養に預かった。カベサコ師が天台宗の僧侶である私に、タイの瞑想と天台宗の止観は似ているのではありませんかと仰ってくださったのだが、私には満足の行く答ができなかった。
これもその時点での私にはそれだけの器量しかなく、縁が生じていなかったのだから仕方がないのだが、ただ、カベサコ師自身は覚えておられないであろうそのお言葉を、その後、私は折に触れ、折に触れ、思い出す。日本のお寺の法務の間にも、あるいはテラワーダ式のアーナパーナサティ瞑想について考える時にも、ああ、そういうことかと腑に落ちることがしばしばだ。
そんなわけで、私にとってカベサコ師との一瞬の邂逅が、結果的にとても良いご縁となったように、集団で戴いた同じ数珠でも、こちらに心があれば、それは本当にすばらしいご縁となるに違いない。確かに私もお座主から直々に戒を受け、直々に数珠を頂戴したのに、その有り難さに気づかなかったのに引き換えて、あのお坊さんはとても良い心の持ち主だったんだなあと、今になって思う。
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