日本社会、別けても宗教文化の中で、女性、動物、死、病い、血、肉などは、穢れているとされ、それらに関連する人々は謂われのない迫害を被って来たから、こうした歴史に対して強い批判の声があるのは、至極、当然のことだ。
ただ、聖地の女人禁制に関して言うならば、これには男性修行者の煩悩を生じさせないために、女性の立ち入りを禁じたという意味もあるから、一概に女性蔑視にのみ基づいた制度であるとばかりは言えない。逆に女性修行者だけの道場があれば、当然、男子禁制となるはずだ。
もちろん根拠があれば許される、と言っている訳ではないし、仏教を含む既成宗教が深く反省すべき点は、多々あるだろう。ただ、「穢れ」批判者の方々が、差別の歴史を糾弾する余り、それに関わるすべての事象を個別に吟味することなく、無批判に否定する傾向には、少し不安を感じる。
例えば、塩や水が穢れを祓う道具とされたのも、塩の殺菌作用や、水の洗浄能力からの連想だろうと思う。確かに穢れなどは、本来、実在しない。ただ、精神に生じた穢れ観を祓う道具として、塩や水が使われたまでだが、批判的な立場にある方は、飲食店の店先にある盛り塩にまで、不快感を覚えるそうだ。
死が穢れとされた根拠の一つは、死体から病いが伝染する可能性があったからだと思う。病いが穢れとされたのは、やはりそれが他の生き物に伝染するからだろう。もちろん風邪であれ、もっと深刻な病いであれ、人に移る病気に罹っている人が、差別を受ける謂われはない。彼らは病んではいても、穢れてはいない。
死が穢れとされた根拠の一つは、死体から病いが伝染する可能性があったからだと思う。病いが穢れとされたのは、やはりそれが他の生き物に伝染するからだろう。もちろん風邪であれ、もっと深刻な病いであれ、人に移る病気に罹っている人が、差別を受ける謂われはない。彼らは病んではいても、穢れてはいない。
男性と女性は生物学的に同等ではないが、基本的人権の下に平等だ。動物と人間も、生物学的に同等ではないが、同じ一個の生命体として、共に尊重されるべきだ。
悪名高いインドのカースト制度は、宗教的な不浄観と密接に結びついていて、バリ島のスブルと呼ばれる不浄観や、日本の穢れ思想や差別的制度の由来の一つともなっている。だが、しかし、カースト制度を含むインド思想こそが、アジアにおける不浄観や穢れ観といった諸悪の根源なのか? と言えば、そうではない。
思想的根拠があってもなくても、心に穢れ観は発生する。インド思想が伝播した地域にも、しなかった地域にも、それは発生する。あるいは宗教とは関係のないところでも、他者を排除する精神は発生する。そして殺意、暴力、怒り、憎しみ、排除、差別、いじめといったすべての悪意は、アジアに限らず、人類が生活する地球上のすべての場所で発生し得る。
そして人の悪意の根源は、人の心の闇を生じさせる貪瞋癡(とんじんち)の三毒だ。かくしてこの問題に関する仏教徒の今後の務めは、貪瞋癡の三毒を人の心から取り除くべく、全力を傾けるという、その一事に尽きる。