私たちはお坊さんだから厄年なんて関係ないですよねと、他のお坊さんに話したら、うちのお寺は厄除け観音なんだけど、と言われて、人にものを言う時は、うっかりしていてはいけないなと思ったことがある。
お坊さんでない一般の方の中にも、でも厄年って、男女の心や身体の節目と科学的にも一致するんだから、その時期に気をつけるのはいいことなんじゃないんですか? などと言う人がある。確かに気をつけるのはいいことだけれど、じゃあ、だからと言ってその時期に神社でお祓いをしてもらうという行為は、非科学的なことではないのかな?
少なくともお寺の厄除け祈願は、たとえ厄年というものを前面に押し出しているお寺においても、それはおろそかになりがちな人の心に、気づきを与えるための、除災招福祈願であるはずだ。
私の父は、私が子どもの頃、いわゆる大厄の年に死んだのだが、子どもの時にそれを聞かされても私は厄年というものを信じなかったし、今でもさらさら信じてはいない。厄年に災難に会う人の数は、災難に会わない人の数に比べて、きっと遥かに少ないことだろうと思う。
そもそも61才を過ぎたら、細かいものを別にすれば、もう厄年もないわけで、厄も寄って来ないような年にもなって、うだうだ言ってるくらいなら、残りの人生を正しく全うすべく、十分に気をつけて生きた方がいい。
昨日、TVで見た人も多かろうけれど、週末にお寺で修行するタイの女子高生に、自分が高校生の時にはもっと楽しいことをして遊んでいたわと苦笑する日本人の女性レポーターが、修行する気があれば、まだ間に合いますよと、その女子高生に言われていた。全くタイ人の言う通りだ。
で、結局また結論はそこに落ち着くのだけれど、人生の節目ごとにではなく、気がついた時から死ぬまでの間、少しずつ、少しずつ、一瞬一瞬に気をつけて生きるのが、仏教者の務めであり、修行だと思う。
そう、タイ人の言う通り、今から始めても、まだ遅くはない。