修行と学問 どちらが大切ですか? | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 何事にしろ、実経験の伴わない、頭の中の理屈だけだでは駄目だ、という考え方は、仏教の修行に限らず、よく耳にする意見だ。では、しっかりと修行さえしていれば、仏教の勉強をする必要はないのだろうか?

 禅宗では不立文字(ふりゅうもんじ)と言って、言葉や文字に頼ることを戒める。念仏浄土門の宗派では、理屈よりも信心に重きを置く。ではこれらの宗派では、仏教の勉強を無用の物としているのだろうか?

 例えば、タイのお寺にも、王立寺院などを始めとする学問寺と、瞑想修行を旨とする森の寺があるが、だからと言って、学問寺では頭に知識を詰め込むばかりで、坐禅瞑想修行をしていないのかと言えば、決してそうではない。そして瞑想寺院においても、仏教に関する知識や勉強は必要だ。

 天台宗には「解行双修(げぎょうそうしゅう)」という言葉があって、学問と修行は表裏一体だとされている。学問という言葉を使うから語弊があるが、仏教に対する基礎知識なしに修行しても、我流に落ち込むだけだ。なのに素人修行者に限って、プロのお坊さんは理屈や勉強ばっかりで、修行の何たるかを知らないなどと非難したりする。反対に修行者でない一般人の中には、仏教書を読み漁った知識をひけらかしては、悦に入っているタイプの方もいる。

 ある程度、修行が進んだ時に、改めて仏教書を紐解いたら、以前に分からなかったことが腑に落ちて、了解できることがある。正しく仏教を学ぶことは、気づきの一環となるはずだ。

 本当は修行と学問のどちらが大事かという設問自体が良くないのだけれど、要は単なる知識の詰め込みではない正しい仏教の勉強は、修行を構成する重要な要素の一つだということだ。

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