タイでは日本の僧侶が妻帯していることは有名だ。タイで修行中、日本とタイの戒律の違いを聞かれて、日本のお坊さんは結婚できる、酒が飲める、車が運転できると言うと、若いタイのお坊さんが、自分も日本で出家すれば良かったと言って笑った。
タイのお坊さんは立ったまま小便をしてはいけない。妙な戒律だと思ったが、その後インドを訪れて、インドではごく普通の風習だったことがわかった。タイのお坊さんはパンツを履かないが、これもブッダの時代にはパンツがなかったからに過ぎない。タイのお坊さんが煙草を吸うのも、昔は煙草がなかったから禁止する戒律がないためだ。バンコクで日本に比べて吸わないお坊さんが多いのは、どちらかと言えば健康上の理由からで、年配の人や田舎のお坊さんほど吸う率が高い。かなり昔には、在家の者が僧侶を供養する時、机にはご馳走の横に必ず煙草が並んでいたという。もっともブッダの時代に煙草があれば当然禁止されただろうから、スリランカなどではお坊さんの喫煙は許されない。携帯電話は禁止されていないが、一般のタイ人は快く思っていないらしいことが、10年ほど前の日本の新聞に出ていた。
テラワーダ仏教には227の戒律があるが、チベット仏教や中国仏教は250の戒律を守る。少し数が多いが、伝承の系統が違うだけで、ほぼ同じ趣旨のものだ。中国にはこれに10+48の大乗戒(菩薩戒)というものが加わった。大乗戒を日本に伝えたのは鑑真和上だが、天台宗の最澄は、大乗の僧侶は菩薩戒だけを守るべきだとした。鎌倉仏教はその方針を受け継ぎ、やがて戒律そのものを受けない浄土真宗のような宗派も生まれた。その後、明治政府が僧侶の肉食妻帯私服は自由というお触れを出し、現在に至っている。
菩薩戒がブッダの決めたものでないにしろ、それを守っていたなら、こうまで日本の僧侶のあり方が批判されることはなかっただろう。ブッダは小さな戒律は自分の死後に変更・削除しても良いと言った。実際にそんな大それたことが出来る人はいなくて現在に至っているが、菩薩戒や、禅宗が独自に守る清規(しんぎ)などはそうした改革だったと言える。
だからと言って日本のいろんな宗派のお坊さんが言うように、人間だから戒律は守れなくて当然だ、むしろ守れないことにこそ意義がある、そして日々自分を省みて云々という理屈は詭弁に過ぎないと思う。私も戒律を守っていないので偉そうなことは言えないが、タイの戒律を見ても、お坊さんだったらごく何でもない当然のことや、実際にそんなことをする人がいたからその時々に禁止事項を追加したような簡単なものが多い。学校で言えば校則程度のものに難しい理屈を付けてはいけない。戒律は守るために有るのです。
●1993年9月10日付「中外日報」に、大島龍玄師が寄せている、中国の授戒会の記事は大変参考になる。また2003年11月20日以降の「仏教タイムス」にも戒律についての連載がある。2003年10月25付「朝日新聞」の「肉食妻帯 許される?」という記事も参照のこと。
●「タイ現代情報事典」(ゑゐ文社)61ページに「タイ仏教の風変わり戒律集」というコラムがある。