【ネタバレ含みます】
初日に『私の男』を観に行ってから早10日。
でも、いまだに余韻がさめず、今は原作小説を読んでいるところです。
150ページほど読みましたが、先に映画を観てから読むと
食い入るように読んでしまいます。
同じように、先に映画を観て 原作を読んだ方はお分かりかと思います。
このまま原作を読んでから書くと、映画と原作の比較論になってしまいそうなので、
今のうちに 映画そのものの感想、ボクが感じたことを書いておきたいと思います。
予告などを見ると、
<殺人事件が絡んだサスペンス> 〈禁じられた愛を描く問題作〉みたいなイメージがありますが、
サスペンスや禁断の愛うんぬんより、
本作は【男と女】、
突き詰めれば【人間そのもの】をシンプルに描いたような作品に見えます。
人間は一人では生きることができません。
誰かに寄り添おうとした時、
本作の主人公たちは、それが養父であり、娘だった、ということです。
ただし、途中で明かされる真実によって、ボクら観客は戸惑うことになりますが…。
鑑賞前に夕刊で読んだ熊切和嘉監督のインタビュー記事で知っていましたが、
本作はフィルム撮影とデジタルでの撮影を併用していて、
中盤、ある場面を境に映像が一変します。
それは、ボクみたいに予備知識がなくても一目瞭然なはず。
何を境に映像を切り替えているかもすぐ分かるはずです。
面白いのは、淳悟(浅野忠信)はだらしなくなったように見えるくらいですが、
花(二階堂ふみ)の印象が一変するのです。
やはり、女の子はほんの数年で大人になります。
美しい社会人の女性になった花はそれなりのアバンチュールを楽しんでいるようにも見えますが、
淳悟の方はただ落ちぶれているだけ…。
だんだんと‘外の世界’を知り、
自分の女性としての武器の使い方も分かっているように見える花と、
花との‘内の生活’しかないかのような淳悟とでは雲泥の差に見える。
寄り添うように生きていた北国での二人の姿とはおよそ違って見えるのです。
ただし、美しい大人の女性になってそれなりに楽しんでいるような花は‘虚構’の姿に見え、
社会から隔離されたようにすら見える淳悟は明らかに淳悟自身の‘本当’の姿に見えるのです。
大人になった女 花と、
大人になれないような男 淳悟、
皮肉なことに、どちらも幸せそうには見えませんでした。
お互いを純粋に求めるあまり、他者を排除した結果、
その事実に縛られた二人は、それゆえ 二人でいる本当の意味が分からなくなっていたのかもしれません。
外の華やかな世界も垣間見た花が、そんな生活から脱しようとするのは人として当然の行動原理。
しかし、どんなに落ちぶれても 淳悟は花には自分しかいないと思っているように見える。
淳悟しか頼る相手がいなかった少女花、
服をせがむようになった高校生の花、
仕事をして 他の男性とも付き合うようになった花、
少女は成長するけど、
大人の男は全く成長しない…。
それでも、落ちぶれた淳悟を見ても哀れには写らなかったんですが、
最後の淳悟の表情が頭から離れません…。
もちろん 花の表情も―。
少女や女としての様々な表情を全身全霊で演じ切った二階堂ふみちゃんの凄まじさと、
その表情だけでは人間性がはかりしれないキャラクターを静かな凄味をもって演じ切った浅野忠信。
この二人が演じたからこそ醸し出せた愛の形とは―?
この作品は一般的な理屈や理性を超えた部分を描いているような気がして
今の段階では上手く書けません。
別に書いてまとめる必要もないのかもしれません。
いまだ余韻が残り、心が震えているという事実が、
この『私の男』という映画が持つ力やと思います。