こんにちは"(*´˘` )♥(´˘`๑)"こんばんは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事を書き終わってから思ったのです。なのでこの一節は下まで書いてから上に戻って書き足した分です。

何を思ったかというと、

分離がないって言いながら、

なんで『投影してる』って言ってんだろう?と・・・

しまった・・・

 

 

分離がないっていうのに、なんで引き寄せの法則を出してきて、周波数で引き合うとか、自己愛で言うところの「自分の投影を他者にしている・他者を見て自分を知る」とかの鏡の法則を、言ってたんだろう?と。

 

そっか、「法則」を作って「私」は私の存在を正当化しているのか・・・居続けるために宇宙を作り法則を作り出す、、、

 

 

 

👀スピリチュアル脳が抜けきれてないからノンデュアリテイがブレていることが明らかな内容となっています。ご参考ください。

 

 

 

 

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前回からの続きです。

実際には他者は肉眼で見ることはできると思っています。意識の上ではそれはイリュージョンとして見ています。そこで他者や出来事に反応が起きない、受け止めることができる、ノージャッジ。でもそれはまだ、反応が起きないようにコントロールしている段階かもしれません。ほぼ「無」のような感じを形から入ってトレーニングしているかもしれません。

 

 

 

 

 

そんな時、しばしば引き寄せの法則の現実創造の気楽さに懐かしくなり、YouTubeの中に展開されているファンタジーランドへお出かけしたくなります。そんなふうに行ったり来たりできるのも、今しかできないことだと思いました。

 

 

 

 

 

覚醒訴求ゲームをたまに覗いて懐かしく思うというのは、「ある」ことに気づいてしまったら、もう気づく以前に状態に戻ることは不可能ですから、気づく前と同じ感覚で味わうことはできません。気づく前の感覚甦れ!と意図したとして、時間軸を外して連続性を無視したとしても、なかなか人はそうならないのかなと思います。中にはそれができてしまう人もいるかもしれませんが。強固に染み付いた連続性は、イリュージョンを確立するために自我のトリックもそうそう解けそうにありません。

 

 

 

 

 

そういう観点からも、あんなに長い間、子どもの頃から人とのコミュニケーションができないことで自分を責め、理想的な生き方があるのにうまくいかないことで自分を責め、シンママで息子を片親にしてしまったことでも自分を責め、自分を磔の刑で呪うように虐げてきた私に、新しい人生である『自分を責めない日』が来るとは思いませんでした。もしも自愛、自己愛を知らずに自分を責め続ける日々で、果たして非二元に出会っただろうか?そして非二元を思い出せただろうか?わかりません。。。

 

 

 

 

 

 

私=自分がいないか、いるかの非二元は「わかる」ものではない。私のための解放ではなく私を超えてと言います。こうして発信している私であっても、まだ表面的にしかわかっておらず、大々的に語れる者ではないけれども、揺れ動く経過を残すのもありかなと思いました。

 

 

 

 

 

引き寄せの法則から自己愛へ気づいて、自己愛からこの世界が幻想だと知ることができたことは私は嬉しかったのです。この世界がホログラムであることは引き寄せの法則を知った時になんとなく気づいていました。なぜかとても安堵しました。引き寄せの法則の地点のそこから探究の道が用意されていたから、自己愛、自我との攻防、今振り返ってみてもその道にはレッドカーペットならずゴールドカーペットが敷き詰められていたのではないか、(ホログラムのね)と思う感慨深さに浸る。

 

 

 

 

 

 

 

悲観的な捉え方(マイナス思考)がどこから来るのかと言ったら悲観的な経験がほとんどだと思いますから。そのことを自己肯定感が低いとか言いますよね。非二元まで来ると、自己肯定感が低くても高くてもどちらでもいいんですけど、だって起きてることなんだものね。自己肯定感が低くても、周りと比べないで劣等感がないならそれでもいいんじゃないかな?と思います。自己を肯定できなくてもそのことに囚われない。それが起きているというだけだから。こんなにシンプルでドライなんだと思います。それは私=自我にとったら、なんとも味気なくてやるせ無い気もします。。。

 

 

 

 

 

 

自己愛の深化というのは、ステップがあるわけではないけどステップを自ら生み出すことができるので、眠っている間にトントンと深化していく感じです。忌まわしいと修飾した過去さえ幻想だったことを思い出していくので、気が軽くなりました。

 

 

 

 

 

それは過去の情報に限らず目の前に起きている溢れる情報にも囚われなくなるということで、真意、本質を見抜けるようになったことです。コロナ禍の慌ただしさは私には無関係でした。周りの人が心配をしている中私は、いつも笑顔でいられたこと、ワクチンの信憑性を暴けたこと、そういう情報の取り扱いに共通する人がいたこと、そしてそういう感覚の人は自分一人では無いのだとはっきりわかったことで、自己愛をマスターし自分の軸ができていたことで俯瞰力があるのは強みだなと思いました。

 

 

 

 

 

母親のこと嫌い、って言える自分の軸ありますか?

 

 

 

 

 

 

過去の体験という情報を起点として物事を捉えなくなってきたことは、いつだって新しい。時間軸にとらわれない連続性を無視できるのはイリュージョンをわかった上でイリュージョンに呑まれることのない生活です。新しいし問題がない。だからネガティブさんともうまく付き合っていける。そういうことから自己愛を勧めています。でもほとんどの人は右耳から左耳を通過させます。

 

 

 

 

 

きっとほとんどの人は、正しさを基準にして捉えていると思います。正解があるからそこに向かっていけばいいという考えから抜け出せていない。

 

 

 

 

 

正しい人を一人置いて、その人と比較して減点方式でこの人は本物、偽物と言っていると思う。でもそれは「私」の起こすジャッジメントですよね。良いも悪いもないのにね。たとえば本当にある人が正しいのだとしても、どうしてそれを正しいと言えるのか?人気があるからとか、本質的なことを語っているからとか、その人を正しい人と認定できる理由はいくらでも用意することができるのが「私」ですよね。

 

 

 

 

 

自分に向き合うということは「私」=自我が消されると、「私」=自我でもわかっているので、向き合わせないように巧妙に仕掛けてきますからね。でもそれも起きていることなんですからどちらでもいいわけですよね。

 

 

 

 

 

私は、非二元もいいけど自己愛もいいなって思っています。自己愛で人生が変わったからかもしれません。過去に対して”忌まわしい”を修飾した情報を「体験した記憶」だと握り締めていたため、そこを起点として物事を捉えることしかできませんでしたから。一般的にネガティブな捉え方をすることをそう言い表しませんか?それをしなくなったことは自分でもすごい変化だと思います。自分を虐げたところで自分が楽しいわけではないので、褒めた方がいいよね、というスタンスです。

 

 

 

 

 

 

自己愛をして、飾ることのない自分でいい、老眼だし太ってしまう自分でもいい、働きたくないならそれでもいい、地味でもいいし、シンプルに穏やかに丁寧に暮らしたい、それでいいという許しができて、安全を感じながら穏やかに満ちたれたのは非二元じゃなくて自己愛の方なんです。だから自己愛の世界が好きなんだと思います。

・・・好きって言ってる時点で私発動かな?

 

 

 

 

引き寄せの法則をマスターしたらネガティブなことが起きないわけでもないし、自己愛をマスターしたらネガティブなことが起きないわけでもないし、非二元を思い出したからといってネガティブなことが起きないわけでもない、ということです。

自分なりのやり方を探すのがいいでしょうね、どれもそのままでもよしなんだから。

 

 

今日も読んでいただきありがとうございました😄