こんにちは"(*´˘` )♥(´˘`๑)"こんばんは

 

 

 

 

 

続きです

 

 

 

 

 

 

引き寄せがうまくいかなくなっていくと、明確に自我の存在に気づいていきました。私は自我に振り回されているらしい、だったらいい機会なので自分を好きになった方がいいという考えになり、自己愛をマスターしようとメンターから学びます。

 

 

 

 

 

引き寄せがうまくなりたいから自己愛をマスターしたのに、自我に振り回されていた状態から、自我を観察する私になっていることに気づいていきました。その頃は津留晃一さんのエッセンスがスーッと入ってきた時期です。8年前は全く理解に苦しんだエッセンスなのに2年も経つと、知覚領域が広がったと自分自身でもわかるほど、問題が面白いように解ける感覚で、エッセンスの意味がわかっていました。

 

 

 

 

 

ニールの「神との対話」もそうですね。タイトルにすごい権威性を感じて読み進めることができなかったのに、1年も放置したらその間に本の内容そのものを実体験してた、ということ。それは答え合わせをしているように感じました。「自分を思い出す」とは実体験なのか、と思いました。そうして自我の観察では、自分(自我)が、何をしているか?何を考えているか?に気づいていくことができます。

 

 

 

 

 

万華鏡の一部だった私は、ある日ファインダーから覗いている私に変わっていたことに気づいて、あまりにも滑稽で大笑いをしました。自我を咎めずに、裁かずに、ノージャッジで観察しています。どんどん自分を赦していきます。そうすると自我の抵抗がなくなるので、「ただのゲームだった・・・」という思いが頭の中を駆け巡り、現実創造に躍起になっていた以前の私を嘲笑するように、唖然ともしましたが、

 

 

 

 

 

 

赦しは心地よく続いていきます。

 

 

 

 

 

 

ジャッジをすれば自分自身=自我と闘うことになり、ただ自我を強化することになるため、意識的なノージャッジの状態を作ることが必須でした。そうやって全てを「正視」していくことで、5次元意識という概念が思い出されたわけです。それはこの物質世界の3次元界を超越したフィールドに移行したと思う視座の高さを得たも同然、捉え方の多角性が広がっていくからです。360°全方向を捉えられる意識ということは、そこに問題があっても問題視しないということでもあります。

 

 

 

 

 

それをスピ界では覚醒と呼んでいるのだと思います。まだその覚醒をしているかしていないか、ライオンズゲートが開くとか閉まるとか毎年やりながら、覚醒をしていないならして欲しいという訴求ゲームが盛んですが、

 

 

 

 

 

5次元意識がふっと湧いてきた時に、完全なる『私=自分のゲームだった』ことを見抜いたわけです。自我を出し抜けってことですよね。暴くということ。でもこれ私の経験上、自我を出し抜くには自分のことを嫌いなままだったら、果たしてできたかどうか確証は持てません。

 

 

 

 

 

自分のことを嫌いなままで、自我を暴くなんて無理じゃないか?と思うのです。

それはただの排除しようというコントロールにしか過ぎないと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

覚醒訴求ゲームが盛んな割には、マネー社会に溺れるゲーム寄り、なのかなと思うのです。最もそれを映し出している私である、からかもしれませんが、、、。とはいえその状態から俯瞰してみると、自我を出し抜いている人の数は、そんなに増えてないのかと推考もできるのです。だから覚醒訴求ゲームの一端で、スピリチュアルは常にトップにランクインするんでしょうね。

 

 

 

 

 

 

ほとんどの人が自我を暴きたい、とは思っているけれど、苦しみという前提から自我を暴きたいと思っているからこそ、自我の執拗な抵抗にかかっているから欲求がおさまらないというトリックに気づけず、覚醒訴求ゲームの「何か」を探し求め続けるのかもしれません。マネー社会が絶対的な賢者の如く、に溺れるゲームから出たくないなら、足りない感じ、まだまだな感じ、ちょっと違う感じ、もっともっとできる感じ、そんなちょっとした不足感が止まないから探し求める場合もあるし、探し求めること自体が楽しいからそれをやり続けている。

 

 

 

 

 

探し求めることがいいとか悪いとかではなく、確証があることがいいとも悪いともでもなくですよ。ただそれはやはり自我でしかないのではないか、と思うと、自分のことを正視して覗き込むほどに知ることは有効なのかなと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

ただ正直に、自分を真正面から見つめると、自分だと思っていた自分が実は、「誰かの価値信念から形成された自分だった」と気づくことで、ホッと安堵することも確かです。救われた感じです。

 

 

 

 

 

もう探し求めなくてもいいのだ、、、という。

 

 

 

 

 

 

自分を知るために、万華鏡を覗いていると他者への投影が如実に現れていることにも気づきます。それは反応し、それは繰り返されます。自分が自分で他者に都合よく投影していたと気づいた時、嫌悪する繰り返されるパターンは自分のせいだった、と思い込んでいただけで、実は誰かの価値信念を自分のものだと握りしめていたから、追いかけ、探し求め続けてきたのか?・・・と確証めいた気持ちになると、

 

 

 

 

自分のせい」は劣等感を作り続けていただけで、それに呼応する物語を展開したに過ぎないと思い、自分の都合でしたし、

 

 

 

 

誰かの価値信念を自分のものだと握り締めていた」のは、他人に合わせて生きてきた名残で、それに呼応する物語を展開したに過ぎない、それも自分の都合だった、

 

 

 

 

 

とわかるので、もうそれ以上の物語の展開をこれまで同様に探し求め続けるエネルギーは消滅します。劣等感やらの否定的な考えも、他者には投影しなくなり、つまり反応もしなくなっていき、リアルに他者さえいなくなります。他者がいないって考えるのはマニアックでちょっと怖いですけどね・・・。他者はいない。とすると、幻想に震えて怯えていたのか・・・と滑稽ではありませんか?

 

 

 

 

 

 

続きます

今日も読んでいただきありがとうございました。