ブロ友さんの紹介で手に取った本です。
出版社による紹介(新潮社webより)
樹木を愛でるは心の養い、何よりの財産。父露伴のそんな思いから著者は樹木を感じる大人へと成長した。その木の来し方、行く末に思いを馳せる著者の透徹した眼は、木々の存在の向こうに、人間の業や生死の淵源まで見通す。倒木に着床発芽するえぞ松の倒木更新、娘に買ってやらなかった鉢植えの藤、様相を一変させる縄文杉の風格……。北は北海道、南は屋久島まで、生命の手触りを写す名随筆。
これを読んでる最中、屋久島の弥生杉が台風で倒れた などのニュースに接し、樹齢3000年の木のあっけない倒木に心が痛むと同時に、幸田文が生きていたらこのニュースにどんな言葉を発しただろうと想像しました。
内容は、木にまつわる15のエッセー。
1971年から1984年にかけて書かれ、発表されたものです。
筆者が亡くなったのは1990年ですから、おおよそ晩年に書かれたもの。
そのせいでしょうか、それぞれの「木」の生に寄り添うというか、「木」の気持ちになっての豊かな随筆に心が温まります。
人の何倍もの時間をかけて生まれ変わる木や森の生のサイクルへの畏敬の念、感謝の気持ちが嫌味なく伝わってきます。
人を動かす文章というものは、言い回しなどの流行り廃りや時を超えて、まるでイマドキの造語のように響きます。
この感覚、以前に有吉佐和子の 『非色』 by 有吉佐和子 | ☆ Pingtung Archives ☆ (ameblo.jp) や 『女二人のニューギニア』 有吉佐和子 | ☆ Pingtung Archives ☆ (ameblo.jp) でも持ちました。
滋味あふれる文章でした。
昔読んでピンと来なかった「流れる」も再読してみようか・・・
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この本の中に、「灰」というタイトルのエッセーがあり、それは「木」が受ける被害としての九州の桜島や北海道の有珠山の噴火、火山灰について語られている章。筆者は「木」のみならず火山の麓で暮らす人々の気持ちにまで寄り添うのでした。
筆者が桜島に行ったのは1977年。
わたくし、この2年ほど前までこの島にしばらく住んでおりました。
当時、桜島は今よりもさらに元気で、中~大規模の噴火は日常。
火山灰のみならず、火山礫や場合によっては火山弾も降って来る。
なので市から支給されたゴーグルをかけ、ヘルメットをかぶって登校。
こんな感じ↓
(画像はお借りしました)
あまり怖いとも思っていませんでしたが、つらい事件もありました。
同じ学校の生徒の家が鉄砲水(火山灰の土石流)で流され、一夜にして両親を亡くし、ひとりぼっちになったことです。
もう50年近くも前のことですが、この「灰」の章を読みながら、硫黄の匂いに満ちた当地の地面の感触、斜面に広がるみかん畑やびわ畑に灰が降り注ぐさまを思い出しています。
その後、島の人口は激減しています。