『女二人のニューギニア』 有吉佐和子 | ☆ Pingtung Archives ☆

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60代おばちゃんの徒然です。映画やドラマ、本、受験(過去)、犬、金融・経済、持病のIgGMGUSそして台湾とテーマは支離滅裂です。ブログのきっかけは戦前の台湾生まれ(湾生)の母の故郷、台湾・屏東(Pingtung)訪問記です。♬マークは音楽付き。

このブログを書いている今、ものすごい台数の救急車またはパトカー??が近くを飛ばしていきます。

この頃、朝に夜に救急車の往来が多くて気が休まりません。

いったい、何が起こってるんでしょう救急車

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さて、表題の本について。

ブロ友さんのレビューをみて図書館に予約したのが3月頃。

何十人も待ってようやくまわって来たその本が、やけに古ぼけた本で驚きました。

だって、普通何十人もの人が予約するのは話題の新刊ですよね。

 

でもこのたび、ブロ友さんのブログを読み返してみて気づきました。

今年1月に新しい版が発行されたのだと。

そうとは知らず、予約してしまった古い版を味わい深く読みました。

 

 

概要

「ニューギニアは、ほんまにええとこやで、有吉さん」文化人類学者の友人、畑中幸子氏に誘われて超多忙の1968年、第二の故郷であるインドネシア滞在後に足を伸ばしたのが、ニューギニアの奥地、セスナを降り三日間山を歩いて辿りついたヨリアピだった。文明に侵されていないシシミン族が住む地での驚きの連続と抱腹絶倒の滞在記。

 

とさらっと書かれていると、あ、いわゆる冒険ものね、と読み流してしまいがちですが、この旅行記、そんな生易しい内容ではありません。

 

時は1968年。

ニューギニアの奥地に日本人のおばちゃん二人。

極限の世界で繰り広げられる、ニューギニアの原住民 対 日本から乗り込んでいったおばちゃん二人、あるいはおばちゃん同士の丁々発止が面白過ぎて息つく間もありません。

原住民はさておき、文明社会で生まれ育ったはずのおばちゃん二人の間にも安っぽい忖度なんてありません。

いつだってホンネ。著者が(子供のために)生きて日本に帰るためには相手の顔色など窺う余地はありませんでした。

 

ちなみに有吉佐和子は1931年1月、畑中幸子は1930年生まれで、いずれも私の母の1学年上の年代。

そんな年代の日本人女性が、1968年にニューギニアの奥地でこんなドタバタを繰り広げていたなんて・・・

 

なかなかやるなあ。

この人たちの(楚々とした日本人女性像からの)ぶっとび具合はもしかしたら、有吉さんがインドネシア、畑中さんが大連という外地育ちから来ているのではないかしら。そう感じます。地球は丸い。人類みなきょうだい!

 

でも、こんなにも濃い生き方をしたからでしょうか。有吉さんは1984年、53才という若さで急逝します。

この本の中での二人の会話。

「(ニューギニアの)独立から20年たって又来てみたいと、あんた思えへん?」

ちょっと考えてから私は答えた。

「それは無理よ」

「なんで」

「その頃、私たちは還暦だわ」

こんな奥地に還暦で来るのは無理という意味ですが、(早逝したことを考えると)なにか暗示めいています。

 

パプアニューギニアの将来を思って次のようなくだりもあります。

日本に帰ってから、パプア地区の開発をめぐって、日本でも狙いをつけている人々がいるということを知って、何かシシミンたちの哀れさを思った。低開発国の援助という大義名分の裏に、ついてまわる利権と政治屋の醜い跳梁。そんなものの襲来を彼らは将来どうやって受け止めるのだろう。

 

当時のニューギニア部族には、女一人と豚3匹を交換したり、インファント・ブライドの習俗がありました。

55年経った今日、世界のあちこちで、まだインファント・ブライドの習俗が残っています。

CMで流れるあれです、

 

I am a child. I have a child.

 

1968年におばちゃん二人が感じたイシューは、55年経っても解決されないままです。

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この本を読みながら「すばらしい世界旅行」という昭和のテレビ番組のことを思い出しました。

そして奥付をみると、発行日(10刷目)の昭和47年3月はまだ父が生きていたころ。

「すばらしい世界旅行」が大好きだった父と一緒に、アフリカのマサイ族やホッテントットの映像を、ソニーのトリニトロンカラーテレビでみた The昭和 なひとときがよみがえります。

 

 

画像はお借りしました。