『瞬間』 by ヴィスワヴァ・シンボルスカ | ☆ Pingtung Archives ☆

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60代おばちゃんの徒然です。映画やドラマ、本、受験(過去)、犬、金融・経済、持病のIgGMGUSそして台湾とテーマは支離滅裂です。ブログのきっかけは戦前の台湾生まれ(湾生)の母の故郷、台湾・屏東(Pingtung)訪問記です。♬マークは音楽付き。

どこかの書評でみかけて図書館に予約した本です。

ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923-2012)は、ポーランドの詩人。

1996年にノーベル文学賞を受賞しました。

 

こんな人です。画像はお借りしました。

 

その中の 「雲」という詩を読みながら、昨秋93才で亡くなった叔母を思いました。

 

    

雲(抜粋)

 

雲の描写は

すごく急がなければならないー--

ほんの一瞬で

姿を変え、別のものになっていくから。

 

ー--

ー--

どんな記憶の重荷も背負わずに

事実を見下ろして楽々と漂っていく。

 

雲はいったい何の目撃者になれるだろう

あっという間に四方八方に吹き散らされるというのに。

 

雲と比べたら

人生は揺ぎなく

ほとんどいつまでも、ほとんど永遠に続くものに思える。

 

ー--

ー--

人々は生きたいように生き

それからひとりひとり死んでいけばいい

でも雲にはそんなことは

まったく関係ない

雲には訳のわからない奇妙なことだから

 

ー--

ー--

雲には私たちとともに亡びる義務もないし

流れゆく姿を人に見られる必要もない

 

 

 

叔母(母の姉)の訃報をきいたのは、12月に入ってから。

台湾屏東で生まれ、敗戦と同時に17歳で(軍人さんに連れ去られるように)鹿児島に嫁いで77年近く。

叔母は結局、嫁いだ土地での暮らしを全うしました。

 

本当にこんな風景の中で、ひとり暮らしを続けました。

そこにあるのは、空と雲ぐらい。

 

大恋愛(?)で鹿児島に嫁いできたものの、30代なかばには伴侶を亡くし、細腕で商売をしながら4人の子供を育てる旅路でした。屏東にいた時、楚々としたお嬢さん風情だったという叔母は、いつしか大声で人に指図する勝気なおばちゃんに変身。

ただ、身を構うことだけは手を抜かず、いつもおしゃれで完璧メーク、湾生アクセント(←と私が呼んでいる、湾生独特の標準語)で話すキップのいいおばちゃんでした。

 

近くのホテルで 屏東の女学校の先生や友人たちと(昭和30年代?)

写真左端 白っぽい着物の人が叔母

 

叔母にはよく可愛がってもらいました。

父が亡くなった翌年の夏休み、勤めのある母に代わって、(自分の店は人に任せて)私たち姉妹を霧島温泉に旅行に連れて行ってくれたりもしました。叔母の(私たちに寂しい思いをさせまいとの)精いっぱいの心遣いを感じたものです。

 

父が亡くならなくても、(観光地にあった)叔母の家は私たちにとって別荘のようなものでした。

長期の休みになると叔母の家に泊りに行き、いとこたちと将棋崩しやダイヤモンドゲームをしたことを昨日のことのように思い出します。そこには父もいたなあ・・・

 

 

昭和なゲームニヤリニヤリニヤリ

 

いつしか高度成長期も終わり、日本人の旅行先は海外にシフト。

叔母の商売も閑散とし始めた頃、子供たちは次々と巣立っていきます。

それからの40年近く、もっと便利な場所に移り住むでもなく、子供のところに行くでもなく、叔母はたったひとりで彼の地に残り、空と雲を相手に何を思いながら過ごしたのでしょう。

 

人々は生きたいように生き
それからひとりひとり死んでいけばいい
でも雲にはそんなことは
まったく関係ない
雲には訳のわからない奇妙なことだから

 

雲をギャラリーに、叔母の訳のわからない奇妙な旅路が終わりました。