太平洋戦争で比(フィリピン)島作戦に参加し、九死に一生を得て帰還した、湾生の元少年(青年)飛行兵 中野道雄さんの手記です。
1925年生まれ
台南州立嘉義中学校3年修了後
東京陸軍航空学校(立川)
大刀洗陸軍飛行学校(福岡)
熊谷陸軍飛行学校館林分教所(群馬)
台湾第106教育飛行聯隊(台中)
飛行第246戦隊(大阪)
を経て
飛行第55戦隊(愛知)に配属
昭和19年(1944年)11月比島派遣、比島航空作戦に参加、惨憺たる敗北と混乱の中、北部ルソン山中を彷徨すること二百数十日、九死に一生を得て、昭和22年(1947年)1月奇跡の生還を果たす。
2018年 93才で永眠。
のちに特攻と言われる作戦の記録です。
どう見ても勝ち目のないポンコツ特攻機をだましだまし乗り継いで、フィリピンの島から島をわたる様子。その飛行中に見える山脈、雲、海などが生き生きとつづられ、まるで中野飛行兵と一緒に飛んでいるような感覚さえ覚えます。
飛行した台湾
比(フィリピン)島航空作戦の舞台
中野飛行兵が乗ったものと同型の三式戦闘機 「飛燕」
復元したもの
画像はお借りしました。
淡々と語られる悲惨な戦況に混じって、戦闘機のスペックやフィリピンの村で出会った美少女とのやりとりなど、少年(後半は青年)らしいカラーに彩られたエピソードも語られ、(不謹慎ながら)初期のスターウォーズ、ルーク・スカイウォーカーの冒険譚のようですらあります。
サンタクルーズ村の村長宅にて
村長の娘 ネナーがフィリピンの若者が着るアロハシャツ、白ズボン、運動靴を用意して (目にはうっすらと涙さえ滲ませて)
「サージャント、カーノ(ナカノと発音できず) マテ マテ ジャパン スレンダー オール パタイ」を繰り返した。
「間もなく日本は降伏する。皆殺しになるから此の服を着て山に逃げなさい。髪、目、肌の色も同じだからわからない。そして戦争が全部終わってから出て来なさい」
今世紀最大といわれるピナツボ山の噴火(平成3年)によりアンヘレスの町は全滅したと昨今のテレビ、ニュースで大々的に報じられている。サンタクルーズの村もその位置から見て、到底難は避けられないのでネナーとその家族も当然避難したことだろう。
過ぎ去った若き日の思い出として、彼女たち一家の無事を祈らずにはいられない。
中野さんの記録には女学校の勤労奉仕隊や婦人会のこと、そして陸軍屏東飛行場も登場します。
屏東飛行場は、南方戦線に向かう各戦隊が、最終の燃料補給、整備点検に立ち寄るために、非常に混雑していた。二日間をかけて徹底した整備点検を行い、翌日整備未了の3機を残して五十五戦隊は勇躍、比島アンヘレス飛行場を目指し飛び立った。
母が屏東飛行場で見送った特攻機の中に、ひょっとしたら中野飛行兵が乗った飛行機があったかもしれません。
いっさいの悲壮感を排除した淡々とした語り口に、余計に戦争の悲惨さが滲む一冊でした。
平成7年(1995年)に書かれたこの本を、この夏再び世に送り出したのは、著者の長女である中野裕弓さん。
昔、お世話になった勤め先の人事部長だった方です。
当時、お互いに湾生2世であることなど知らずに過ごす日々でしたが、今になって「湾生2世」という共通項を知り納得することしきり。
なんというか、(湾生という)ガイジンに育てられた日本人、です。
薩摩弁でいうところの「ぼっけもん」でしょうか。
若き日の中野飛行兵におくります。
戦場の兵士の心境をつづった歌。




