どこで、どなたの書評でみかけたのか、もう思い出せません。
今ごろ回ってきて読みました。
イスラエルの社会学者の女性(母ではない)が、母になって後悔や苦しみを感じている女性23人にインタビューし、まとめた本です。
母親になって後悔しているが子どもは愛している。
「キャリア」と「子ども」のジレンマについては、しょっちゅう話題になりますが、どちらも欲しくない人だって、いるのです。
育児が労働の一形態として扱われ、仕事の後の「質の高い時間」を伴う「趣味」と扱われないのであれば、子育てはもっと魅力的だと思っただろう。しかし私が知る限り、子育ては容認できない重荷であり、多くの場合、女性に家事の一環として押し付けられる。
子供のために自分の人生をあきらめました。・・・思うのは、母になることで奪われたものは取り戻せないということです。子供と過ごす時間は楽しいですが、一緒にいる時が最高に幸せだというのは、嘘と欺瞞です。・・・子供を持つ理由なんて存在しません。
母を主体として認めることは、母を役割として規定している社会では当たり前ではない。役割としての母とは、子供劇の中で演じられるような母だ。この社会的台本によれば、母は主体(サブジェクト)ではなく客体(オブジェクト)であり、他者の生活に奉仕するために存在する独立変数なのだ。
育児は結構大変です。
一度も後悔しない母なんていないんじゃないでしょうか。
そのことを社会学者が本にするとこうなるのか、とある意味感心しています。
たしかに、産む性である女性は太古の昔から割に合わない役割を押し付けられてきたのかもしれません。
一方で、ここに紹介された女性の声の向こうには、「俺はオンナに生まれて子育てしたかった。働くのいやだ」という男性がいて、同じような本ができてもおかしくない、とも思います。
個人的に、子育ては一方通行の奉仕だと割り切っています。
そうでも思わないとやってられません。
この本を読みながら、あるところでは膝を打ち、あるところでは「そこまで言うか」と感じました。
そしてなぜか、明治生まれの祖母たちのことを思い出しました。
今より不便な時代に6人とか8人の子供を産んで、戦争をくぐりぬけ、とことん働いて死んでいった人たちのことが神々しく見えます。
・・・そんな風に考えること自体、「(母になることに疑問を持つなと)刷り込まれてる」証なのでしょうか。