八女で祖母の産後をやり過ごし、元気になった母の一家は、半年後、曾祖父・祖父の故郷静岡に向かう。場所は現在の掛川のあたり。
ここで、親戚の家の土蔵を借りて一家8人で暮らした。
実際はこんなきれいな土蔵ではなく、粗末な土蔵の土間に最初は藁を敷いただけの粗末な住居。それでも文句はなかった
土蔵のサンプル(wikipediaより)
母は女学校3年になる年に引き揚げてきた。終戦後学校制度が変わり、女学校はなくなり新制の高校へ移行したのだが、その高校へは行かせてもらえなかった。8人の家族のうち、働き手は祖父と母だけ。母は、農協に働き口を得て働きに出たのだった。タカラヅカを目指して音楽や踊りのレッスンに励んでいた屏東時代とは一転、内地ではあっても辺境の、牧歌的すぎる環境。司馬遼太郎 「街道を行く~台湾紀行~ 魂魄」に出てくる田中準造氏の『ジャン・ギャバンの心境』だったに違いない。戦後、母のような思いをした女子は多かったのだろうけど、学校に行けない無念を、泣きながら井戸に向かって「なんでですか~」と叫んだという話を聞くと(これも最近)、今からでもいいから学校に行かせてあげたくなる。
そんな中、末の弟が少し大きくなると、祖母も小さなバイトを始める。それは、着物の行商。
屏東時代、本町の母の家の隣の長谷さんという呉服屋さんが浜松に引き揚げていた。
屏東の長谷呉服店↓(矢印の場所)
引き揚げ者同士、しかも空襲まではお隣さん。会う機会でもあったのでしょう。困窮した母の一家をみて、長谷さんが祖母に着物の行商はどうかと提案してくれた。祖母は、目が肥えていて見立てがうまかったこともあって、このバイトそこそこの足しになったらしい。こうして、子供を育てながら生き延びた。
昭和30年代の行商者 (庄内日報より)
浜松の長谷呉服店、今もあるなら行ってみたいな。
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