八女 | ☆ Pingtung Archives ☆

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60代おばちゃんの徒然です。映画やドラマ、本、受験(過去)、犬、金融・経済、持病のIgGMGUSそして台湾とテーマは支離滅裂です。ブログのきっかけは戦前の台湾生まれ(湾生)の母の故郷、台湾・屏東(Pingtung)訪問記です。♬マークは音楽付き。

大竹での一連の手続き・収容期間を経て、生後2か月足らずの末の弟を連れた母の一行は福岡県の八女に向かった。

↓当時の鉄道網(アトラス社) 今とそう変わらない。

おそらく一行は、大竹から山陽本線と鹿児島本線を乗り継いで久留米あたりまで行ったのではないか。そこから八女まではバスか、まさかの人力車?

八女の祖母の実家で一行はやっと安心して眠れる生活を取り戻した。人々は大変親切だったが、食糧難に変わりはなく、甘泉堂の羊羹や着物が米やみそに姿をかえて家族の命をつないだ。

 

実は、今年の春休み、ここへ行ってみた。目的は、金の指輪 を曾祖母に届けるため。曾祖母は昭和14年に台湾で亡くなり(戸籍から計算すると48歳。若いけど当時の寿命・・・)、故郷の八女のお墓に埋葬された。一方、曾祖父は戦後引き揚げてきて、故郷の静岡で亡くなりそちらに葬られている。つまりこの夫婦のお墓は離ればなれ。で、金の指輪の話をきいて、「それなら届けてあげよう」と思い立ったのだ。母から金の指輪をもらった翌日のことです。レンタカーで高速を飛ばした。その集落は、八女ICからこれでもかというぐらい東の奥地に入った峠の集落だった。

その日はあいにくの雨。

高度があるせいか、すぐに写真のようなもやがかかるそう。夏でも涼しい。戦前、台湾から避暑に来ていたというのもわかる気がする。この村で幼少時に食べた野菜の味や、夕暮れの景色など、84歳の今でも母の脳裏から離れないほど素敵だったそうです。

墓地は納骨堂に姿を変え、墓石はなかった。納骨堂はシャッターが下りていて供える場所もないので指輪をはめてシャッター押した。

「○○さん、指輪持ってきましたよ」

この声が届いたかどうか・・・

 

このあと、予想外の展開が待っていた。

祖母や曾祖母の実家を探していて偶然、曾祖母の家の跡取りで母の従兄でもある人に会うことができたのだ。

 

「○○ちゃんの娘さんね、あがっていきんしゃい」

戸惑ったけれど、こんな親戚に会えることもそうないのかなと思いお邪魔した。

母の従兄もそのお母様も、母のこと、祖母のことをよくおぼえていてくれた。

 

70代初頭のその人は奥様とお母様(93歳)との3人暮らし。その人のお父様(故人)はこの地から屏東に行き、母の家から学校に通い警察官になった。そして屏東でお母様と出会い結婚してこの従兄が生まれた。物心つかないうちに同じように引き揚げてきたそうだ。隣接する祖母の実家のことなど、いろいろな話がきけて、こんな風に出会えたことがとても嬉しかった。93歳のお母様は

「これも持っていき」

と気前よく何枚かの写真をくださった。

 

その93歳のお母様の婚礼の写真。既に戦局が悪化していた。

はからずも、若き日(30代前半ぐらい)の祖母の写真(赤丸)に出会った。

この親戚との出会いも屏東調査にはずみをつけることとなった。

 

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