高雄港を出港した引揚げ船は、台湾海峡、東シナ海を経て日本の西側の港に向かって航行を続けた。戦前、夏休みに日本に向かう時にはほんの2~3日だった航海日程は、どうして?ってほど長かったという。
各地からの引揚者の数 (wikipediaより)
そんな、ただでさえピリピリした船上で、生後2か月の末の弟が泣き止まず、母の一家は周囲から迷惑がられた。赤ちゃんが泣き止まない理由は単純で、ろくに食べてない祖母のおっぱいが出ないのである。祖母は事態を予想してたくさんミルクを持って乗船した。しかし、船上でお湯がもらえない。ミルクが作れないのだった。祖母は、配給される味噌汁のうわずみの部分を冷まして与えたが、赤ちゃんの泣き声にだんだん元気がなくなっていった。姉は一足先に内地に嫁いでいたので、きょうだいの中では母が年長者。船の中をくまなく回り、「お湯をもらえませんか」と探して歩いたが全く聞き入れてはもらえなかった。いつしか泣かなくなった赤ちゃんの様子に涙がこみ上げてきたころ、やっとお湯の配給が始まった。弟は、ミルクを飲む力もなくなっていたが、祖母が少しずつ口に含ませると飲むようになった。
誰も助けてくれないなんてひどいと思うけれど、みんながぎりぎりの状況だった。
高雄港出港前に倉庫のようなところに何泊も待機させられ、船上でも劣悪な衛生環境。もともと弱っている人は命を落とした。マラリアにかかって死ぬ人もいた。こうして船上で息を引き取った人は水葬に付される。遺体を海に沈め、その周りを船がどらを鳴らしながら3周。これが今生の別れ。こうして数多くの遺体が台湾海峡や東シナ海に葬られた。
引揚げ船上での水葬 (wikipediaより)
ひとすじの光である”内地”へ向けて、生死をかけた航海。
船上の悲喜こもごもも大海の一滴に過ぎなかった。
いつか読んだ同名の小説の影響で「台湾海峡」で連想してしまう曲。
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