終戦の日から半年以上たって、母の一家にもいよいよ引揚げの日がやってきた。
財産はすべて接収されていたから、持って行けないものは使用人や知り合いに譲り、手荷物の布団に甘泉堂で作ってもらった羊羹や着物を縫い付けて・・・
けれど、母の家には特別な事情がありました。
それは、民国35年2月(つまり昭和21年2月)に生まれたばかりの赤ちゃん(男子)。
そう、民国35年生まれ。
引揚げ船に乗ったのは3月か4月らしいので、生後1~2か月の赤ちゃんを連れての引揚げだったのです。
終戦から6か月後に生まれた赤ちゃん。なんでこんなタイミングで・・と疑問は残りますが、国民は産児制限なんてこれっぽっちも考えなかった模様
でもね、しつこいようですが、戦争末期、もう若くはなかった祖父にまで召集令状が届き、戦地に赴くことになった時、祖父は言ったそうです。
「この戦争負けるよ」
なのに・・・赤ちゃん ま、いいけど
戦火をくぐり抜けて無事生まれた赤ちゃんを家族全員で歓迎したのでした。
引揚げは、最初に軍人軍属が優先的に復員させられ、その後1946年2月21日から民間人の帰還を開始。2月21日以降の帰還事業は、第一次帰還から第三次帰還を中心に数次に分けられる。台湾からの引き揚げ事業で帰還した日本人は、最終的に、軍人軍属15万7,388人、民間人32万2,156人、合計47万9,544人である。(wikipediaより)
↓は3月から4月の出航者数(資料:wikipedia 高雄港出港分の黄色いハイライトの数の一部が母の家族のはず)
この期間の帰還事業に投入された船舶は延べ212隻。このうち83隻がアメリカ海軍供与のリバティ型輸送船であり、これで計23万人近くを帰還させることができた。
リバティ型輸送船(wikipediaより)
母一家が引揚げ船に乗ったのは昭和21年の3月か4月。高雄港を出港する船だった。リバティ型だったのかどうかわからない。
祖母は生まれたばかりの赤ちゃんを更紗に巻いて首からつり、他の子どもたちは祖母を助けるべく出来得る限りの荷物を持った。残念ながら実際の写真はない。
↓こんな感じか
満州からの引揚者(米国公文書館資料より)
それにしても、国益のためとはいえ、アメリカが船を出した・・・
引揚げの様子だって、アメリカ軍が写真撮ってなかったらなんの記録も残ってなかったでしょうね。
高雄の港では、手続きや荷物の検査が終わってからも乗船まで何泊か待たされた。
港の荷置き場のような場所で、かたい粗末な床での寝起きだった。糊のきいた清潔なシーツで暮らしてきた母たちにとって、試練の第1章だった。
©2016-2017 Pingtung All rights reserved.