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ジャケットの歌詞が・・・・・
メロディといい、詞といい、ミスチル衰え知らず。
環境問題を突き詰めていくと、人間が諸悪の根源であることは間違いない。
だけど何でもかんでもセーブしろっていうと、息を吸うのも資源の無駄ってなことになる。
結局のところバランスなんだけど、難しい。
誰かの幸福は、誰かの不幸。
全てがハッピーなんていうのは、夢のまた夢。
表裏一体の世界の中で、自分はどう生きるべきか。
適度に今日もリサイクル!
脱線したけど、良いアルバムです。
ぱずというのは、僕の小・中学時代のあだ名。人によってぱずー、ぱず、ぱずったと3パターンの呼ばれ方がある。ぱずは、女子に多く、ぱずったは小学校からの友人に多い傾向あり。
基本的に僕とどういうつながりで知り合いになったかによるところが大きい。
ソフトボールのチームメートつながりとクラスメートつながり、そしてそれがいつのクラスメートかによってまた分岐する。
さて肝心の由来であるが、諸説ある中でもっとも有力なのが、小学4年生の頃に、電車の中吊り広告にあった「パズラー」という雑誌からきているという説である。
6年生のOさん(当時所属していたソフトボールチームのキャプテン)が、遠征中の電車の中で、僕の名前と響きが似ていたからか、はたまた、たまたま近くにいたからなのか、僕をパズラーと呼ぶようになり、それがじょじょに広まったっていう説。
「天空の城ラピュタ」の主人公がパズだったので、そこからきているという説もある。、これは、給食の時間に15分ずつ程度放映されていた時期があり、パズーという響きが気に入った誰かが、名づけたという説。
結論から言うと、パズラーは、ソフトボールチーム内での呼称であったのが、パズの登場によりリンクがはられ、結果パズに統合されたというのが正しい解釈かと。
また、僕が普段そうだったのか、こまったり、しっぱいすると「ぱずった」というのがはやったこともある。僕を呼ぶとは関係なくみんな「ぱずったよ」とか普段の会話でも使っていた。
そんなわけで、このあだ名は知る人ぞ知る、懐かしい響きなのである。
同窓会を開いたら、きっと名前のほうが思い出しにくいのではないだろうか。
よい映画だったから、僕もあえて否定しなかったので、もともとのパズラーの存在が薄くなっていったのは
否めない。
ついに出た。1030万画素!
思わずブログにアップ。SONYは好きなんだけど、
これを使いこなすには、いろんな意味で投資が必要。
本体そのものは、それほど高くないんだけど、こいつが
活きる環境整備には、相当出費が必要。
うーん先頭つっぱしるのも楽じゃないってことか。
台風恐るべし。自然は人間の都合なんておかまいなし。温暖化の影響とかいってるけど、ほんとのところはどうなんだろう。今年は、いうほど暑くも無かった気もするし。環境問題になると、話が複雑で長くなりそうなので、もう寝る。インド・・・・・ネクスト中国!
普段辛口で、めったにほめることがない両名が、ある映画の宣伝に出てめったにない作品だとかなんとかで褒めちぎっている。辛口批評家が褒めるんだから、絶対に面白い的な、広告会社の思惑が思いっきり見えて、逆にひく。僕だけかな?
アカデミー最有力ってのだけでも、使っちゃったっていうのに。
これでつまんなかったら・・・・。あちょう。
http://www.movies.co.jp/cinderellaman/
パソコン用に、使うスピーカみたいだけど、18畳までOKと店員さんは言っていた。
久々に購買意欲が旺盛に。
価格も割と良い値段がついているけど、やっぱりそれなりかなあ。
誰かこれについて知ってたら教えて!!!!
今日の見る、聞く、食べるといえば、タイトルの3つになる。
ピンクフロイドって名前は、ずっと知ってたんだけど、それが言い悪いは別にして
なかなか聞くきっかけがなかった大御所のひとつである。
多分再接近したのが、ミスチルのAtomic heartの名前の由来が、ピンクフロイドの「Atom Heart Mother」だってのを、聞いた時だったんだけど、結局その時もを聞かずして、今日に至った訳である。
タイトルとは、相反してジャケットは、これ。
でも、音楽はぶっとんでる。よく~年代とかいって懐メロチックに音楽をジャンル分けしたりするけど
これって多分どこにも当てはまらない。よほど、未来の音楽が劇的に変われば別だけど。
多分小学生の時でも、中学生の時でもこの音楽に出会うことは出来たのに、見事にすれ違ったまま。
出会いってのは、そんなもんだけど、こんなのにはまっていたら多分人生は、大幅に変わっていただろう。
もっと世界に憧れて、かぶれちゃって今頃、向こうのヒッピーになってたり、タイの観光ガイドになってたりしたかもしれない。
インターネットなんかもそうなんだけど、今知るのと、20年前に知るのでは雲泥の差がある。もちろんただ知ればいいってもんじゃないけど、今じゃ当たり前のことが、当たり前じゃない時に、それを当たり前にした人達が、大金をかっさらっていっている。
多分今も、目の前にいろんな宝物がころがっているんだろうけど、それに気が付くのは限られた人だけ。
何かあると考えて、めいっぱいアンテナを張り巡らして生きている人と、なんにも考えず漫然と日々を暮らしている人の違いなんだろうけど、今の自分て圧倒的に後者なんだな、これが。
それもひとえに、満足しちゃっている自分がいて、阿波踊りみて、揖保の糸を食って、ビール飲んでたりするのが、幸せだったりするわけで。
僕は、今後どこに向かっていくんだろう。そしてこの文章も。ということで終わり。
塩ラーメンが食べたくて、ネットでいろいろと情報を集めた結果として、AFURIにたどり着いたわけだが、結論ぴんとこなかった。うまいという内面からわきあがるような感情が残念ながら起きることはなかった。
ちなみにここ最近そういう感情に至ったところでは、香川で食べた山越のうどんなんだけど、そのときの感情をひとえに言うならば「胃が喜ぶ」って言う表現がしっくりくる。ちなみにを重ねるのもヘンだけどその前は仙台の牛タン。
話をAFURI評に戻す。評判が非常に良かっただけに、最初食べているうちは、きっとこれはうまいに違いないと、自分が思った「おやっ?」という感情を封じ込めて、錯覚、錯覚として、満足の中で食を終えそうになったけど、やっぱりこれは違うと食べ終わった後には確信を持った。
人それぞれ味覚に違いがあるから、なんともいえないけど、世間の判断に惑わされることなく、自分の判断を信じられるようもっと自分を磨いていかなきゃなと、われ思うのであった。→「胃が喜ぶという判断基準が立派に出来上がっていたのをある意味再確認したわけだが・・・・











