私のブログに何回も名前が出て、江戸参府紀行で長崎街道の様子を詳しく書いている「シーボルト」のゆかりの地を訪ねました。ここは鳴滝のシーボルト記念館です。
1823年に27歳で出島にやって来ました。ドイツ生まれで、オランダ商館の医師および日本調査員としてオランダ国から派遣されました。
当時の商館員は出島から出ることを禁じられていましたが、その見識や技術の高さが評価され、ここ鳴滝に塾を開く事を許されました。
シーボルトの名声を聞きつけて全国から多くの若者が集まり、その後の日本の医学・自然科学の発展に大いに貢献しました。
長崎ではタキと暮らし彼女を「オタクサ」と呼んでおり、日本で初めて見る大好きな紫陽花に「オタクサ」という学名をつけ発表しています。写真は長崎紫陽花祭りの時の鳴滝塾です。
1826年、30歳で長崎街道を通り江戸へ参府しています。その時、昼食をとったのが矢上宿の教宗寺です。行く先々で動植物を採取したり、人々の暮らしなどの情報を収集しています。
これは川原慶賀が書いた江戸参府の様子で、松原宿と彼杵宿の間の長崎街道と考えられています。江戸では樺太探検の間宮林蔵など多くの知識人と情報交換をしています。
1827年、31歳でタキとの間に娘イネをもうけますが、翌々年、シーボルトが帰国したため、母子は大変苦労しました。しかしイネは勉学に励み日本最初の西洋医学の女性産科医となりました。
(彼女の波乱に満ちた生涯を奈華よし子さんが漫画にされています。この漫画はシーボルト記念館で買いました。)
これは寺町の皓台寺の高台にある楠本家の墓で、ここにタキもイネも眠っています。さすがに坂の町ですね。かなりの勾配で、登るには覚悟がいります。
1828年、32歳の時、シーボルト事件が起きました。彼が帰国する予定の船の荷物に蝦夷・千島を始め持ち出し禁止の日本地図があったことが発覚。
(医学部内のシーボルト記念碑)
1829年、33歳で国外追放され、シーボルトを乗せた船が出島を出港しました。。弟子たちの手配により港を出てすぐの小瀬戸の海岸へ上陸し、妻子と最後の別れをしたと言われています。
オランダに帰った後、日本に関する著書を多く出版し、世界に日本の様子を紹介して衝撃を与えました。
30年後の1859年、63歳の時、長男と共に再来日しタキ、イネ母子や弟子たちと再会します。鳴滝の住居を買い戻し2年間は長崎で診療や研究をし、半年間の江戸滞在の後に日本を離れました。
1866年、70歳で死亡する時「私は美しき平和な日本に行く」と言い残したそうです。
没後150年の2016年、タキ・イネ母子が眠る皓台寺で、シーボルトの末裔を招き法要が行われました。
愛する日本人妻タキの名前を学名にしたアジサイの花びらを表現したお菓子。サクッとした食感と程よい甘さが特徴の欧風菓子です。
シーボルトは日本の医学の発展に多大な貢献をしました。また日本について詳細に調べ記録に残しています。我々が長崎街道や江戸時代の日本の様子を詳しく知る事ができるのもkシーボルトのお蔭なのです。











