私が生まれ育った長崎県諫早市には本明川が流れ、その7カ所に飛び石があります。
本明川は多良山系から始まり諫早市街地を流れ、諫早干拓地を通って有明海に注ぐ長崎県唯一の一級河川です。地図の⑦が上流で、⑥では諫早駅の近くを通り、④では諫早公園の前を、①では
我が故郷の東諫早の近くを流れて諫早湾に注ぎます。そこで、7つの飛び石を見ながら私の故郷の下流の方からぶらぶら歩いてみました。
①最も下流にある飛び石です。手前の上流から向こう側の下流に向かって流れています。小さく見えるのは本明川大橋で、向こうに諫早平野が広がっています。
②下から2番目の飛び石。この手前に光江橋があります。
近くに江戸時代の川の港・諫早津跡があります。以前は水が豊富で、有明海からこの本明川を上って来た帆掛け船の船着き場がここにありました。また、このあたりは芥川賞作家の野呂邦暢の書いた「諫早菖蒲日記」の舞台で、作者本人が生前に住んでいた場所もあります。
③番目目の飛び石。今は歩道橋(水道橋)になっている眼鏡橋が見えていますが、その向こうに③番目の飛び石があります。この眼鏡橋がある場所には、もとは国重要文化財の眼鏡橋がありましたが、その強固さ故に69年前の諫早大水害の原因になり、今は諫早公園に移築されています。写真の少女は高城橋の欄干に造られたオブジェです。
④番目の飛び石 右側に諫早市河川敷公園があり、さらにその右側に我が母校の諫早高校と諫早公園があります。諫早公園には移築された眼鏡橋があります。
左側を見上げれば名刹・慶巌寺がありますが、ここは有名な箏の調べ「六段の調」発祥の地であり、他にも多くの貴重なものがあります。50年以上前に我々の野球部の合宿を受け入れて頂いた思い出の場所でもあります。
本明川は人々だけでなく鳥たちの憩いの場所でもあります。
⑤番目の飛び石 本明川は諫早公園を過ぎると急に北に曲り、その諫早神社の前に飛び石がありますが、これは長崎街道のうちの諫早街道(多良海道)として利用されていました。
諫早神社は諫早だけで無く九州総守護の神々をお祀りする四面宮とも言われていました。七五三などのお祝いに詣でられることも多く、わざわざ飛び石を渡る人々や写真撮影する人もいます。
⑤番目の飛び石 諫早神社の先に四面橋(四面宮に由来)があり、その上流に⑤番目の飛び石があります。奥には多良山系の五ケ原岳が見えています。
⑥番目の飛び石 最後の飛び石で、ここから本明川はしばらくJR大村線と平行して北上します。その後、本野で分かれて富川渓谷から源流である多良山系の方に向かいます。写真の右奥にはその山々が見られます。
この様に今の本明川は川幅が広く十分な広さの河川敷もあり、川はゆっくりと流れており人々や水鳥たちの憩いの場所になっています。しかしながら、一級河川にしては短く急勾配の川なので、昔は度々、氾濫を起こし水害が絶えませんでした。江戸時代は何度も橋が架けられましたが洪水の度に流されたので橋の代わりに飛び石を置き、その1カ所が⑤番目の飛び石で諫早街道(多良海道)の一部となっていました。シーボルトは江戸参府の時、長崎を出立して最初の日は諫早に宿泊しており、「多良岳に源を発して諫早付近の海に注ぐエイショ川(本明川)を越え、大村へ向かった」と書いています。その後、諫早領主の肝いりで強固な眼鏡橋が造られましたが、逆に強すぎて橋に流木などが引っかかって、1957年の諫早大水害につながりました。水害後、眼鏡橋は諫早公園に移築され、川の拡幅工事と河川敷の整備を行い現在の広々とした本明川ができあがりました。そして、1985年、諫早を舞台したテレビドラマ「親戚たち」で復元された⑤番目の飛び石をその後も温存し、更なる飛び石を追加をして「本明川の飛び石さんぽみち」が完成して今に至っています。












