天正少年使節と③諌早宿について書いたので、諫早出身の2人についても紹介します。これはつつじ祭りの時の諌早公園の眼鏡橋の様子です。当時は橋の向こうの小高い「城山」にお城があったそうです。
天正少年使節がヨーロッパに派遣されたのは1582年ですが、それに同行し4少年と同じ程の功績を残したのが諫早生まれのドラードでした。彼も4人と同年代でしたが、彼らの世話をするとともに、活版印刷技術持ち帰り、日本人で初めて活版印刷を行いました。
(青山敦夫氏の本の表紙をお借りしました)
彼の旅行中の詳細な記録が天正使節記に使われ、日本の最初の印刷物には「ドラード発行す」とあります。帰国後はキリスト教への弾圧の中、各地を転々としながら印刷を行い、またセミナリオでの教育に携わりました。
復元された印刷機と印刷された本(旅する長崎学2より)
1614年、家康による禁教令でマカオに追放された後、セミナリオの院長にまでなり、多くの人に愛され、慕われ、53歳で亡くなりました。諌早図書館内にある顕彰像の左手にはしかっりと印刷物を握っています。青山さんは「ドラードの印刷人物語を忘れないで」と書いておられます。
もう一人は芥川賞作家の野呂邦暢氏です。1956年、諫早高校卒業、1974年、芥川賞受賞。1980年、42歳で死亡。諌早市上山公園に文学碑があり毎年5月末(今年は5月27日)には「菖蒲忌」が行われます。
季刊誌「諌早通信」は13年間で52号が発行されましたが、今年より電子化され、以前のものも含めて誰でも読めるようになっています。
作品の一つ「落城記」は、1587年、諌早の領主・西郷氏が佐賀の龍造寺氏により攻められ、滅亡する史実をもとに書かれています。その時ドラードはまだヨーロッパにいます。この作品の中には諌早公園の「城山」にあるこの大楠が描かれています。
主人公で、城主の娘「おりお」がこの木に語りかける場面があります。
更に、眼鏡橋のすぐ近くで諫早高校の校内にある「御書院」も「落城記」に描かれています。滅亡した西郷氏が造り、代わった龍造寺氏(2代目が諫早氏と改める)が大きくした、回遊式庭園です。
城山の楠木の近くから眺めた本明川下流に広がる諫早の町と諌早平野です。昔は町全体が見渡せたので、ここから何度かスケッチをした記憶がありますが、今は木の枝とビルが大きくなり見えにくくなってしまいました。
本明川下流の川岸に野呂邦暢の住まい跡があり、ここで彼は「諌早菖蒲日記」を書いています。住まいの近くの石原さん方では毎年、菖蒲の花が咲きます(2年前に撮影)。
2人の生きた時代は約400年も離れていますが、2人ともそれぞれの人生を精一杯生き、素晴らしい功績を残しています。これからも語り継ぐべき諌早の誇りだと思います。









