長崎街道~日見峠を下る~ | 長崎回縁隊のブログ

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ご縁が回って、全国の方々と知り合えればと思います。
そして、少しでも一隊化できる場所があれば最高ぜよ。

「日を見晴らす峠、そこからは東望の浜が望めた、視界がひらけた、そ

して思いを断ち切った」昔のものですが、今回は綺麗なランタンも見たので、思い残すことなく日見峠を下ります。頂上付近より見た日見、矢上方面です。

見える山は標高439mの普賢岳です。今は東望の浜は見えません。

 

日見峠の日見側は最も急峻な坂道で、そこに岩をくりぬいて馬頭観音が祀られています。本当に何かに祈りたくなるような坂道です。

 

まずは2)明治に造られた日見新道を下ります。江戸時代の元の街道と違い、馬車も通れるようになりましたが、それでも七曲りと呼ばれ、まさにヘアピンカーブです。

 

途中に松尾芭蕉の弟子で、長崎人である向井去来の句碑があります。「君が手もまじるなるべし花すすき」とありますが、「見送る人の手を振る姿がススキの穂に混じって見えた」との意味。

 

ここら辺りは芒塚(すすきづか)町と言い、その町名はこの句に由来しています。その句碑の脇から、1)江戸時代の長崎街道(歴史の道)、に行けるので、そこを降りて日見宿方面へ行きます。

 

すると、3)大正時代にできた日見トンネル、の入口の「梨子の木茶屋跡」に出てきました。このトンネルは私も最近まで利用していましたし、もちろん今でも現役です。この上が江戸時代の長崎街道でした。

 

略図で示せば、こんな感じでトンネルが通じたのでしょうか。当時の新聞には「36曲り名代の難路・日見峠が平らたくなる」と報じられ、祝いの行列が一の瀬橋を通り新大工町まで続いたそうです。

 

 

更に下りが続きますが、国道34号に日見峠道の歴史を示す看板があります。左上から1)江戸時代の細い山道、右上が2)明治時代に造られた日見新道、左下が3)大正時代にできた日見トンネル、そして右は4)平成にできた新日見トンネル(私は最近はこれを利用)です。この4つが混在している峠です。

 

近くに日見峠饅頭本舗があります。砂糖文化が花開いたシュガーロードならではの長崎のわらべ歌が残っています。「町で饅頭買うて、日見で火貰うて、矢上で焼いて、古賀でこがして、.久山でうち食うた」街道の地名と合わせた歌です。

 

饅頭を食べていると、遂に日見の宿跡に到着です。小さい宿場ですが、長崎街道25宿の一つでです。峠を越えてきた人は難所を越えてほっとし、今から向かう人は覚悟を決め、長崎入りの準備をする場所でした。

長崎街道最大の難所の日見峠。様々な人々が様々な思いで越えた峠。私にとっても、思い続けて、遂に達成できた念願の峠越えでした。次は、わらべ歌に出てきた矢上、古賀、久山方面へ向かいます。