塾の国語のはなしを書きます
息子の塾しかしらないから(体験すら行ってない)、息子の塾の話ですが。
すごくいいなって思ったこと。
漢字と読解、記述について書いておきます
あと語彙だ。
語彙!
読解の、例えば心情理解というもの。主人公の気持ちを次の中から選びなさいっていうような問題に対し、「そんなの人それぞれの感じ方じゃない?」というのは、国語じゃないんですよね。価値観?哲学かな。
国語では、心情を表す、辞書的に一番近い表現や描写を知っているかの知識を問うのですね。
「喜び」「怒り」「哀しみ」「楽しさ」の基本感情から、果てなく広がるさまざまな思いのひとつひとつに名前がついてる。それらの使い方、意味、使う場面を正しく理解することで、正確な表現ができるようになる。モヤモヤと胸に広がる名前のない感情に一つ一つ名前をつけて、意味を定義してきた。それをなるべく辞書的に正確に覚えて、さらにその感情に付随する言動などの描写を知っていくのが語彙の習得で、テストでは、その知識を問うと。
例えば「悲しみ」の中にある、やりきれなさや、自責や後悔の感情を表した描写。どれが一番辞書的にしっくりくる表現なのかきちんと見極める力をつけるには語彙を広げていくしかない。
擬音語なんかもそうですね。風の音、雨の降る音などについて、なるべくたくさんの表現する言葉を知ることで、情景を言葉で伝えられる範囲が広がります。
ということが、塾のテキストを見ているとよくわかります。カリキュラムがよくできてるんだろうな。
語彙を正しく理解すること、とても大事です。語彙の共通理解の上に、スムーズなコミニュケーションがあるのですもの。
京極夏彦は、擬音で読み手を怯えさせますが…
ざあざあ。どうどう。
天の底を抜いたような大粒の雨である。
風が凪いでいるのが唯一の救いである。
慣れた道とはいえ、これで風が強ければ
命の保証はなかっただろう。
ざあざあ。どうどう。
しょき。
…何だ。
異質な音がした。
(『巷説百物語』「小豆洗い」京極夏彦)
雨音、川の音に混じり聞こえる「しょき。」の怖さ!
まさに、読み手がその擬音でイメージするものが、作者の思惑と一致している証ですねえ。
以上、塾の学習、語彙についてでした!
書いているうちにこの曲があたまをぐるぐる🌀