ひとつの曲の中には心の動いていくさまが入っている。季節と同じように感情は移ろっていくものだ。音楽はまさに移ろいそのもの。誰の感情?作曲したひとの感情。演奏する人達はその感情の移ろいをまず感じ取る。

自分も作曲した人と同じ数の感情を細別できないと、演奏した意味がなくなってしまう。

それゆえにその曲はまだあなたに早過ぎるとかいう話になる。経験したことのない気持ちは感じ取ることも、まして表現することは不可能だから。天才と呼ばれていた人達にはそういう感知のちからも備わっていたから天才だった。それに自然もまだ破壊されてはいなかったから、移ろうことを一般のひとたちもふつうに察することができたのだろう。だからきっといろんなことがシンプルだったんじゃないかな、と想像する。

今はやたらに”難しいことはわからないけど”っという枕詞で、察することも感知することもわきへ除けてしまう。

本当に考えてみたけどわからないからそう云うのではなく、あなただけわかってれば、勝手にどうぞ、という風に。環境にわるいのかもね、でもとりあえず生きてるわけだから、と使い捨てをして表面だけ気持ちが入れ替わっていく。自然が壊れれば人間の心も並行して壊れていっている。

自然と並行して人間の心も壊れていっているそのことは音楽に映っていて、坂本龍一さんのような音楽家はすでに20年前から警告を発している。でもほとんどのひとたちは20年間そのことに無関心なままだ。


アメリカに起きる悪いことは5年後に日本でも起きる、とちまたで言われている。でも頭のいい、偉いひとたちは

じゃあ5年後に日本でそれが起きないようにしよう、どうやって防げるのか、とは誰も検討も取り組みもしない。


生き返る、再生するには初心、原点に戻るしか無いのに、進化という言葉でまやかして未来に価値はあたえようとしない。脳の物質という、それこそ未知のうんちくの判断なんかより、自らの心の声が真実を告げているはず。

本当の共感はそのいくつもの心の声から生まれる。

演奏する人達、心の声をいつも生かしておこう。そうして音楽をする人達が、自ら心を奮い立たせることで自然はもう少し生き延びられる。


アーティキュレーションは音楽の文法だ。曲の書かれた時代特有のそれをつかって奏かない限り、その曲を演奏しても本当の意味は通じない。なんとなくはわかっても。それはクラシカルの分野だけでなく、軽音楽にも当てはまる。DJのカテゴリーを見ても、とても細かく分かれている。自分は区別できるほどそっちの音楽のことは、わからないけど、知ってるひとはそれぞれのカテゴリーになにをすればいいか判別していて、その上でイケテルかそうでないかジャッジする。それとおんなじこと。

テンポをゆらしてるとかそういうことではない。でも、どういうわけかクラシック音楽から語法・文法が閉めだされ始めている。なんでなんだろう?

とある俳優さんがインタビューで言っていたことが、今でも印象に残っている。

「とってもいいことを引き寄せたら、それと同じくらいの大きさのネガティブなこともくっついてくる。ちょっとしか動かないんであれば悪いことも起きない。どっちがいいかは自分が決めることだと思う。」

このことで、評価を受けるということについても言及しているのではないだろうか。


演奏が終わった瞬間に、一対多数であった関係も終わる。多数(聴衆)は肯定と否定に分かれる。

そしてそれぞれの感覚の違いを認めるか否かのレベルですまない事態も起こる。

演奏者に関する「肯定」か「否定」が、聴衆のあいだで交わされた意見交換ののち、

演奏者にバックしてくる場合だ。

演奏は当然のことながら消滅しているが、

聴衆が自分の感覚を証明するために

言葉でそれを蘇らせようと試み始める。「肯定」でも「否定」でも。


演奏者はちょっと面食らう。

どういうわけか、「否定」の声はよく響いてはっきりと入ってくる。

ふたつの派にわかれた後の聴衆にとって、自分の人格は決められてしまっている時もある。

自分のミスを悔いていないやつ、と思われる場合だ。

演奏中にすでに、うまくできなかったら自覚するし、忘れることは無い。反省点は本人が一番よく知っている。

ただ「否定」は「肯定」との議論を通して、こんどは演奏者に「否定」の存在価値を認めさせにくるので、

演奏と関係がなくなっていることもある。

「肯定」はやわらかく穏やかな場合が多い。たぶんそれも演奏者の手を離れた効果であって、

音楽という存在がそのひとを癒したからなんだろう。


大勢のひとに聴いていただいたときはこんなふうに、評価も

「大きく」なる。