
豚袋でございます。
9月ももう半ばにさしかかろうというに、相変わらず夏のような日が続いております。夜は少し過ごしやすくなったのですが、日中の日差しには憂いというものがなく、容赦を感じませんね^^;アパレルに身を置く者として早く気温が下がって欲しいと切に思います。さてすっかり週刊ブログ未満になってしまいましたが、久々の本編は今まで何となく取り上げるのに躊躇していたアルバムをクローズアップしたいと思います。誰もが知っているイーグルスの「ホテルカリフォルニア」です。
メランコリックで哀愁の漂うイントロの12弦ギターの音色。重なる印象的なベースラインからレゲエのような裏リズムと同時に入る歯切れのよいややハイトーンのボーカル。終盤に向け盛り上がり、エモーショナルなギターの掛けあいでピークを迎えるドラマティックな構成。洋楽に触れたことのある人なら誰もが知っているであろうこのアルバムのタイトル曲は、その旋律の美しさと圧倒的な完成度の大作で、もはや説明するのが無粋というくらい親しまれ、同時に消費され尽くした感があります。
その一方でこの曲が注目を浴びたのは歌詞でした。要約すれば、西海岸のハイウェイでの運転に疲れた主人公が、途中でホテルを見つけ立ち寄り滞在した際の体験を告白する内容で、目にした堕落と快楽主義に嫌気が差してチェックアウトしようとしたがいつの間にか自分も取り込まれ幽閉されていく、というストーリー。この歌詞に使われる言葉がアイロニカルで暗喩に満ちており、ダブルミーニングを解き明かしていくかのような仕掛けが聴き手にとっての魅力でもあったのだと思います。(例えばWe haven't had that spirit here since nineteen sixty nine …のspiritは「酒」と「魂」のふたつの意味だ、とかが最も有名ですね)
私がこのアルバムをとリ上げるのに躊躇していた理由は、あまりにも有名な曲であるがゆえあまりにも多くの解説と解釈がなされ、ひいてはアメリカという名の幻想と崩壊という社会事情のメタファーだ、ロック商業主義へのアンチテーゼだとまるで金太郎飴のように大げさなティピカルな結論として評論され尽くしてしまっているからでした。そうした論調にも正直辟易してしまった部分もあります。しかしながらやっぱり名盤である事は確かなので、作品全体の素晴らしさについて書きとめておこうと思います。
初めてイーグルスを聴いたのはラジオでした。ちょうどイーグルスのベスト盤「グレイテスト・ヒッツ 1971-1975」が出たころで、ラジオの番組はそのアルバムをクローズアップする内容だったと思います。エアチェックしたその番組を繰り返し聴きました。そこに感じたのは自分のイメージの中にあった「アメリカ」らしさでした。テイク・イット・イージーやテイク・イット・トゥ・ザ・リミット、我が愛の至上らの曲にいかにも大陸カントリー的なムードとボーカルやハーモニーの美しさが心地よく感じました。それから数か月から一年くらいたった頃、アルバム「ホテル・カリフォルニア」がリリースされ、やはりラジオでまたイーグルスを耳にしました。それが前出のタイトル曲とこの曲、「ニュー・キッド・イン・タウン」でした。
この2曲を聴いて、アルバムを買う事にしました。前出のタイトル曲のロックテイスト溢れるドラマティックさと、「ニュー・キッド・イン・タウン」の優しくも美しい、イーグルスらしい旋律。こんな曲たちが共存しているアルバムをぜひ聴いてみたくなったのです。また、アルバムジャケットの美しさも筆舌に尽くしがたいものがありました。
アルバムを通して聴いてみて、これは素晴らしいアルバムだと思いました。個々の曲のクオリティの高さに圧倒されました。ファンキーなギターサウンドあり、切ないロックバラードあり、力強いミドルテンポの曲あり、伸びやかなウエストコーストサウンドを彷彿とさせる曲あり。各々の曲全てがシングルとして通用するのではないかと思われる完成度と親しみやすさ。まさに百花繚乱なヴァラエティを感じさせながら、まるで組曲のようにアルバムとして構成されており、その流れから逃れられない感覚。個々は明るくポップな印象をもちながら、アルバム全体を支配する「失望」「退廃」「官能」「刹那」という統一感。たぐい稀なる良質なポップ・メロディーと終末観の共存。まさに名盤になるべくしてなったアルバムだと思います。
何故に最もドリーミングアメリカ的なシンボル・ウエストコーストの雄であったイーグルスが、ここまでアイロニカルな作品を出したのか。アメリカの社会背景等いろいろ解釈はあると思いますが、私は前作でのカントリーからの脱皮がひとつの成功を収め、「グレイテスト・ヒッツ 1971-1975」の爆発的なヒット(アメリカ国内で2900万枚も売れた)の次というプレッシャーから自己否定したアプローチをせざるを得なかった面が強かったのだと思います。(それはあたかも「ネヴァー・マインド」の爆発的成功が生んだ自虐のアルバム「イン・ユーテロ」でニルヴァーナがたどった道を、すでに70年代に体現していたように思います。)「前作以上」のためにメンバーをチェンジし新たな血を入れ、過去の自分たちのワークに否定的なスタンスをとることによって観点を変えるしかなかったのではないかと思います。それは同時に過去のイーグルスの否定でもあり、バンドとしての終焉を意味していたのではないでしょうか。
「終焉」の予感は時に美しく、素晴らしい物を生み出します。ビートルズのアルバム「アビー・ロード」のB面のメドレーのような儚いまでに磨き上げられた美しさしかり、キング・クリムゾンの「レッド」の終盤の凄絶なエンディングしかり。結果論としてバンドが「終わった」から美しいのではなく、これ以上ない至高は逆に「終わる」しかないのかもしれません。そう感じさせるほどこのアルバムのB面(暗黙の日々~ラスト・リゾート)の流れは本当に美しい。特にランディ・マイズナーの「素晴らしい愛をもう一度」という過去イーグルスへのゲット・バック的なメッセージをグレンとヘンリーが「ラスト・リゾート」という曲でパラダイスは終わったと否定してしまうかのような返えしと余韻は本当に切ない結末を感じさせて美しい。
本作の価値は社会や時代背景のメタファーにあるのではなく、作品の究極なまでの完成度にあるのだと思います。その完成度は次のアルバム「ロング・ラン」まで3年を要した事、できた作品にはもはやバンドとしてやる意味を喪失した残骸しか残っていなかった事を見ても、もはや次がないほどであった事の証明でもありました。(ラストの曲「サッド・カフェ」だけは美しかったですが。)
ラスト・リゾートを聴きながら締めたいと思います。それでは、また。


