MY BLOODY VALENTINE / LOVELESS (1991) | 極私的洋楽生活

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豚袋でございます。



つい先日1周年を迎えたとおもったらもう2週間がすぎてしまいました。流れが速く感じます。なかなかブログ世界を探訪もできず、自身のブログもついに隔週刊も危うくなってきてしまう有様。そうこうしているうちに夏を迎えましたね!今日の東京は33度と真夏日となっております。さて、7月最初の記事は豚の苦手な90年代を温故知新してみたいと思います。



何年か前にたまたま、「ロスト・イン・トランスレイション」という映画を見ました。ソフィア・コッポラ監督、日本を舞台としたこの映画は、内容的には特にどうということのない、異国の国にいる感覚と見方と違和感がテーマの映画でございましたが、何せ音楽が格好よいではありませんか。まぁそこでケヴィン・シールズなる記号が浮かび上がってきて、ほほーマイブラなんだーというのがきっかけ、という通常ではないちょっとイレギュラーな入り方でした。



Sometimes





そんなわけでマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン「Loveless」は完全に後追いで聞きました。何度か記事にて触れてきましたが、豚がロックミュージックへの興味を急激に失った時期は1990年代で、この時期に活躍したミュージシャンはほとんどがロストな時代です。いかに伝説で大御所であったとしても知らなかった訳ですね。ただ、ジャケットがカッコよかった。ショッキングピンクの絶妙な色合いに浮かぶギターのサイケな構図。温故知新したい気持ちに拍車がかかり、思わず買ってしまいました。



Only Shallow





最初はなかなか新鮮に聞こえました。ただ、ありとあらゆるメディアがこぞって絶賛し、当時あったムーヴメントであった「シューゲイザー(演奏に没頭するあまり、自分の靴をみているかのような事からこう言ったようです)」の金字塔とかいろいろ言われるほどの衝撃はありませんでした。やっぱり歪んだファズギターのフィードバックノイズ×甘めのメロディという特徴はどう考えてもジーザス&ザ・メリーチェインが切り開いた地平であり、またダンスビート的グルーヴ感や揺れはストーン・ローゼズによってすでに後塵を拝しているような感を受けざるを得ません。ただ、そのふたつの要素をミックスし、幾層にも重なるかのような沈鬱な質量と甘美な恍惚感をかもし出す世界は、完成度という点において群を抜いて素晴らしいと思うのでありました。何度も何度もきくうちに、ダウナーな浮遊感の中にボーカルの脱力感と透明感が重なりあい、独自の世界を構築していく感じ。スルメというのはこういうアルバムの事を言うのかも知れません。



メリーチェインとコクトー・ツインズがシェイクされてできたような、儚いまでの耽美的かつ破滅を内包する危うさを持った美学的世界。ケヴィン・シールズとビリンダ・ブッチャーのコーラス・ワークは見事という他ない、完璧なバランスを保っている。もはやバンドサウンドというよりも、スタジオワークによる完璧につくり込まれた内向的世界がそこにありました。70年代の狂気がピンクフロイド、80年代の狂気がザ・スミスとすれば、90年代の狂気はマイブラというのは褒めすぎでしょうか。



リアルタイムでなかった事が衝撃の薄まった一番の原因だと思いますが、聞き手の私がフォロワー達の音楽に耳慣らされていた事も大きいのだと思います。このアルバムがリリースされたのは1991年という時代を考えると、恐らく当時は衝撃的だったのでしょう。その後、彼らを規範とした音楽があまりに多く出て、知らずのうちにそのDNAがいろいろな形で世の中に浸透したとの見方が正解のような気がします。ひとつのベーシックとして昇華したということなのでしょう。不思議と古さを感じないのはベーシックとなった事が大きいのかも知れません。やはり偉大なジョブだったのでしょう。



17年の月日がリリースから経ちますが、あまりに完成度が高すぎたゆえ、また方法論としてやり切ってしまったかのごとくその後新作を出せることもなく活動休止状態にあることは有名ですが、最近リユニオンし、フジロック2008への参加が決まったのは皆様の方がお詳しいでしょうね。ただ、これだけのアルバム世界を再現できるのか注目されますね。ただでさえスタジオで練りに練って作った音世界が一期一会のライブで表現できるのか、フジロックに行かれる方は楽しんで来て下さい。



アルバムのラストチューンで締めたいと思います。それでは、また。



Soon