静岡帰省 | ペッターの話

ペッターの話

延々と1人でブツブツやってる

静岡で暮らしていた期間よりも

東京に来てからの方が圧倒的に長いので

地方出身と言うと本当の地方育ちから

怒られることもあるが

誰になんと言われようと

私の出身地は静岡県富士宮市なわけ。



今まで静岡に帰るのは3年に1回程度だったが

この1年でなんと3回目になる。

弟が亡くなって面会に上京した父を送りがてら

日帰りで祖父母の顔を見に行った6月。

祖父が亡くなって通夜参列をした10月。

そして今回。

前代未聞の2泊3日という

超まったりスケジュール。


弟と最後にあった去年の4月末に

たまたま水上バスの乗り場で見つけた

浅草の流鏑馬のポスターを見て

「あっ!流鏑馬だ!」

と、会話の流れをぶった切って

弟が声をあげた記憶がある。

その時、弟に直接言ったかは定かじゃないが

来年の富士宮の流鏑馬祭りを

弟連れて見にいこうかな、と

考えたことは覚えている。


富士宮に住んでいた頃は

小さい弟をお祭りに連れてったことが

何回かあった。

流鏑馬祭りにも連れてったことがあり

弟と2人で流鏑馬を見たことは確か。


弟がやりたかったことを代わりに

という訳じゃないが

そんな訳でGWのクソ混むタイミングで

今回静岡へ帰った。

雨女の私にしては珍しく

一度も傘をさすことがなく

特に流鏑馬の5月5日は言葉通り

雲ひとつない晴れ空で

夏のような暑さだった。


小学生以来に見る流鏑馬は

思いのほか迫力があって

目の前で見事に的を射抜いた時には思わず

おぉ!と声が出た。

カメラを持って行ったので写真も撮りつつ

たまにはカメラを構えず

見ることに集中した。

使う矢や装束に種類があることは

知らなかった。

父は弟の写真立てをカバンに入れて

祭りへ連れて行った。


子供の頃の記憶しかないので

屋台の数はやや少なく感じたが

熱気というか雰囲気は記憶のままだった。

昔はスマートボールもあったと思うけど

それは流石になかった。

メダカすくいや

スーパーボールすくいに混ざって

ツムツムすくいがあったのは今時って感じ。



夜、寿司とオードブルをとってくれて

祖母と父と3人で食べた。

今までも弟と静岡へ帰ると必ず夕飯に

寿司とオードブルを用意してくれて

祖父も一緒に、5人で食べたが

随分寂しくなったものだ。

祖母は昔の大阪万博の話をしてくれた。

ところどころ記憶が曖昧だったものの

何があったとか誰がきたとか

当時のことをよく覚えていた。

「どれくらいの期間やってたの?」

と聞くと即答で

「半年」

と答えた。

今調べたら確かに3月半ば〜9月半ばだった。

1人前のお寿司をペロリとたいらげたあと

揚げ物もいくつか食べたので

88歳の食欲に驚いた。



漱石先生が療養中に人事不詳に陥った

修善寺が車で行ける距離と聞いて

最終日は朝早くに出発して

車を走らせてもらった。

祖母とは別れ際に写真を撮った。

「ありがとう。元気でね」

と声をかけると

「お気をつけて」

と見送ってくれた。


修善寺 虹の郷内に移築されている

当時宿泊した旅館の部屋は

時間帯が早かったこともあり貸切状態で

周りに人もおらずとても静かで良かった。

好きなだけいて良い、と父がいうので

お言葉に甘えて父を外で待たせ

1人きりで部屋に座り込んで

漱石先生が修善寺で

死にかけた時のことを書いた

「思い出すことなど」

を少し読んだ。

漱石先生の文章で私が1番好きな作品。


ちょうど修善寺の大患と呼ばれる

大量吐血した時の部分を読んだ。

部屋の中には当時、漱石先生が

どちら側を向いて寝ていたかも

書いてあったので

作中の描写と合わせて

当時の様子が鮮明に浮かぶようだった。


畳の上に寝転んでもみた。

毎日この天井を

見つめて過ごしたのか、と思った。

ゆっくり浸れて幸せだった。



どこへ行って何をしてても

父とは弟の話になった。

昔、こんなことがあったとか

弟もコレが好きだったとか。

静岡帰省に関わらずだけど

さわやかのハンバーグが食えないなんて

目の前で流鏑馬を見られないなんて

こんな綺麗な富士山が見られないなんて

残念だったな!