年子で

5人兄弟のど真ん中に生を受けた私


自己顕示欲の強さは

半端なかったと思っています。


自己を顕示しなければ

親から忘れ去られてしまう


という思いから

勢いづいてしまったのかもしれません。


自己顕示欲


強度の差はあっても

人間誰しも持っているもの。


認めたくないですけど。



ネガティブなイメージありますよね。


自分の中にはない


と思いたいくらいに。


でも


この自己顕示欲の強さが

私の中では

いろんなことを頑張らせるエネルギーに

なっていました。


そして

芸術家には必要な欲じゃないかな?

と思ったりもします。


決してマイナス面ばかりではないのですが


我々日本人は

敵視し、自分の中にはないもの

とさえ思ってしまう。


そして

自己顕示する人を

嫌悪する。


実は

それが

自己肯定感を上げるため

脳の報酬系を(特に中脳辺縁系らしいです)

活性化させ

ドーパミンガンガン出して頑張る

というメリットもありながら


他者の評価に過度に依存してしまうことで

(依存させるような環境も要因だったりします)


他者との比較で自分の位置を明確にしようとしてしまう


そのことが

負のスパイラルになって


自己中心的な行動に映り(受け取られ)

人間関係での心理的摩擦が生じる要因に

なっていたのでは?


と思い返しています。


音大時代

ベートーヴェンソナタの熱情の全楽章が

実技試験課題だった時


大好きすぎる曲でしたし

まさに

当時の

私にとって

自己顕示欲を掻き立てられる曲でもありましたので


練習

めちゃくちゃ頑張りました。

成人式も出席せず(実家にも帰らず)

アパートにこもり


大学の図書館に行っていろいろ学んで

自分なりの経過結論を

試験で披露しました。


結果は

悲惨な点数。


指導教授が

大きなミスがあるわけでもなかったのに

この点数はおかしい


と内訳を調べてくださいましたが


満点に近い点数をつけて下さった先生方と

落第点に近い点数をつけた先生方がいて

真ん中の点数がなかったらしく

平均を出すとこの点数だった。


とのこと。


一応

一番悪い点数と一番良い点数を省いて

平均を出すらしいのですが


こんな現象だと

どうにもならないのだそうで


結局

点数取ると

いろいろな特典があるので

点数を取るための弾き方レッスンに

シフトされました。


いわゆる

学生弾き

平均的な演奏

を強いられました。


私の演奏はベートーヴェンじゃないって

言ってた先生もおられたとか。


いや

私はベートーヴェンじゃないし

先生もベートーヴェンじゃないでしょう?


私は私

ベートーヴェンが作って下さった作品を

私が感じるままに表現することが

悪いことなの?


あと

ペダルを踏む音が激しく不快だったとか


それで落第点に近い点数

つけちゃいますか?

そもそもこの曲

そんなお行儀良く弾く曲ですか?


確かに

思い返せば

クセが強すぎた


認めます


でも

それは若気の至りということで

受け止めて欲しかったぁ〜


私にとっては


ホントに

最悪


でした。


音楽やる意味ない

って思っちゃいました。


そして

音楽の世界に失望し

この世界から出るきっかけになった出来事でした。


今思い返せば


私の自己顕示欲の強さが

演奏にバンバン出ていて


カチンときた先生方が続出した


つまり

先生方の自己顕示欲と

摩擦が生じてしまっていた


ということだったんだろうな

と今なら思います。


この自己顕示欲


私の中で

否定的な受け止めが大きかったので


なんとかならないものかと

悪戦苦闘しました。


出る杭は打て


という日本文化では

主張の大人しい演奏が

好まれるのかもしれません。


ー概して

海外の先生方が評価してくださっていた

という印象ですー


この自己顕示欲が

コントロールできるようになるために


他者のために役立つ形で表現される機会を増やす


そんなことで

尖った演奏に丸みを帯させたい


なんて思ってもいました。


自分の培ってきている

技術や知識

そして経験を


他者が引き立つために使う生き方


このスタンスが

私を育ててくれていると思っています。


でも

主張のない演奏って

聴きたいかな


私は

その人の人となりを感じられない演奏

つまんない

って思っちゃうんですけどね。


平均的な演奏は

評価は比較的安全ですからね。

そういった意味での

落とし所を見つけていくのが

プロの演奏家だろう?

と言われれば確かにそうかもしれません。


そして…


録音になると

私も今

割と平均的な弾き方

してるかも🫢


ー心理的には、抑圧と葛藤状態の演奏

かもしれません。


この点

もっと成長していきたいと思っていますー



作曲家の意図を飛び越えちゃってる

って言われてましたけど


時代がかわり、社会が変わって

その作曲家が今の時代にいたら

同じように感じるかもしれなくない?

不変の神さまじゃあるまいし。


そこは

未知の領域にしないと

いけなくない?

そして

それは

あなたの狭い価値観の押し付けじゃないの?


学術論文発表じゃあるまいし…

論文の世界は

根拠が弱かったり、論が弱いところを

指導教授らに突かれながら

組み立てていくそうですが


音楽は

感性ありきの世界。

別世界であるべき

と思います。


もちろん勉強はしますよ

でも

だからって

今生きていない歴史上の人の意図

絶対視する?

あくまでも

想像の域

の世界じゃない?


もちろん

作曲家へのリスペクトは大切ですが

リスペクトの仕方だって

人それぞれじゃないか?


そういった方々が幅をきかせて

価値観を固め

それに育てられた方々が

コンクールの審査員とか

しちゃってる世界


自己顕示欲が

あらぬ方向に暴走している

ー他者の足を引っ張っていたり、

感性を潰していたりして

成長を歪めてしまう方向にー


と私には映ります。


自分の存在を顕示したいとき

認めてもらえる場所にするには

その場を

自分の狭い価値観で固めていく必要が

ありますから。


こういう演奏は⭕️

こういう演奏は❌

とわかりやすく一般の方々にも

提示して、自分色に染めておいて

聴き方まで固めちゃう


これじゃあ

弾く人も聴く人も

感性鈍っちゃいますよね


それは

もはや

音楽の追求ではなく

その中で生きていくための

方法論の押し付け

でしかない。


ので


距離を取って

しがない音楽家路線で

自分の音楽を追求していきたいと思います。


そして

やはり

パフォーマーとしても


自分の演奏が

人の心をポジティブな方向に動かし

生き方そのものに共感していただけるような

表現者でありたい


たとえそれが

一人の人しか目の前にいなくても。


とも思っています。


音楽は何のためにあるのか。


私の人生の問いです。

問いかけながら


そういったことも含めて

音楽は自己表現ですので


自己顕示欲と向き合うこと。


これは

もしかすると

私にとって


一生の課題なのかもしれません。

(気質的にも😅)


私の場合

強い分、はっきりしているので

向き合いやすいですし。


大抵は

自分の中にある自己顕示欲に

まず気づけないと思いますから。