ー完全さより、成長していく姿を支えるー
「あなたには才能がない」
そう思った瞬間、
人は成長をやめてしまうことがあります。
でも本当は、
才能がないのではなく、
まだ未熟なだけ
なのかもしれません。
何かを会得していく時に、
この視点はとても大切だと思っています。
ピアノのレッスンをしていると、
「できないから、向いていない」
「この子には才能がないのかもしれない」
と、すぐに諦めてしまうお子さんがいます。
そして、それは子どもだけではありません。
親御さんの中にも、
少しつまずいただけで、
「この子には無理なのでは」
「才能がないのでは」
と考えてしまう方がいらっしゃいます。
何かを会得していく時に、
とても大切な考え方があります。
それは、
「才能の問題ではなく、まだ未熟なだけ」
と考えることです。
特に東京で教えていた頃、
その傾向を強く感じることがありました。
周囲に優秀な人がたくさんいる環境では、
比較する機会も増えます。
すると、
「できる子」=才能がある
「できない子」=才能がない
という、とても単純な見方になってしまうことがあります。
けれど、
人が自分の能力をどう捉えるかは、
その後の学習への取り組み方にも大きく影響します。
「能力は生まれつき決まっている」
と考えると、
失敗した時に、
「やっぱり自分には才能がない」
となりやすい。
一方で、
「今はまだできないだけ」
「経験や練習によって、少しずつ伸びていく」
と捉えることができれば、
失敗を「能力の証明」ではなく、
「学習の途中」として受け止めやすくなります。
いわゆる「成長マインドセット」にもつながる考え方です。
私自身、若い頃には、
この「才能」や「性格」という言葉に
とても苦しんだ経験があります。
かつてピアノの世界で、
頂点を目指していた私に、
「この性格が、あなたにとって
ピアニストとしては致命的だ」
と言われてきました。
おっちょこちょい。
負けず嫌い。
感受性が敏感。
すぐ涙が出る。
そして、
「あなたのその性格、
人間性が問題だ」
と、言われ続けました。
自分では簡単にコントロールできない部分まで、
「性格の問題」として捉えられていたのです。
けれど、
ピアニストとして音楽を表現するためには、
感性はなくてはならないものでもあります。
繊細に感じる力。
心が動く力。
音の微妙な違いを感じ取る力。
そうした感性を持ちながら、
同時に「強靭なメンタル」も求められる。
私は、その矛盾の中で苦しみました。
けれど今は、
強靭なメンタルとは、
必ずしも「強さ」だけを意味しない
と思っています。
時にはそれは、
鈍感さでもあるのではないか。
傷つかないために、
感じないようにする。
気にしないようにする。
周囲から何を言われても、
自分の内側に届かないようにする。
それも一つの「強さ」なのかもしれません。
けれど、音楽をする人間にとって、
あまりにも鈍感になってしまえば、
音の微妙な違いや、
人の心の動き、
自分自身の内側で起こっていることにも
気づきにくくなってしまいます。
だから私は、
感性を守りながら、
傷ついた時には自分を立て直せる力。
それこそが、
本当の意味での「強さ」なのではないかと
今は思っています。
なぜなら、
性格や気質は、努力だけで自由に変えられるものではないからです。
当時の私は、
「努力すれば何でも変えられる」
「努力すれば何でも叶えられる」
と思っていました。
けれど若い頃、
海の事故で死を前にした経験によって、
私の中にあった
「努力万能主義」は
大きく砕かれました。
人間には、
努力だけではどうにもならないことがある。
生まれ持った気質もある。
環境もある。
身体もある。
心の傷もある。
そして、
自分ではコントロールできない感情もある。
だからこそ、私にとって、
「未熟」という言葉は、
その後の人生で大きな支えになりました。
未熟という言葉には、
可能性があります。
「足りない」
「無理」
「あなたはダメ」
ではない。
まだ成長の途中なのだ。
そう思えるから、
もう一度やってみようと思える。
未熟だから、学べる。
未熟だから、変化できる。
未熟だから、これからがある。
ただ、ここで一つ、
とても大切なことがあると思っています。
それは、
「未熟でいい」と思うことと、
「未熟さを自覚しなくていい」ということは違う
ということです。
人は時に、
「完全であること」に安心感を求めます。
ちゃんとできている。
間違っていない。
認められている。
私は大丈夫。
そう思えると、
心は一時的に安心します。
けれど、
完全であることへの安心を求めすぎると、
「自分はまだ未熟である」という自覚を
*失ってしまうことがあります。
未熟さを認められなくなると、
人は学ぶことをやめてしまいます。
「もう十分できている」
「自分は間違っていない」
と、自分を守ることが最優先になってしまう。
だから私は、
「自分はまだ未熟だ」と認められることは、
自己否定ではなく、成長する力なのだ
と思うようになりました。
未熟さを恥じる必要はない。
けれど、
未熟さを見失わない。
その両方が大切なのだと思います。
そして最近、
このことを考える中で、
「パトロン」という存在についても
思うようになりました。
昔から芸術家たちは、
よいパトロンによって
才能を開花させてきました。
芸術家に関心を持ち、
その活動を理解し、
支えてくれる人たち。
そうした人たちは、
芸術家の「完全さ」だけを
応援しているのではないのではないでしょうか。
むしろ、
まだ未熟で、
思うようにいかなくて、
日々葛藤しながら、
それでも何かを探し続けている。
昨日より今日、
今日より明日へと、
少しずつ変化し、進化していく。
その姿そのものを
応援しているのではないか。
私は、それが
本当の意味での「パトロン」なのではないか
と思うようになりました。
完成された作品だけを評価するのではなく、
「この人は、これからどうなっていくのだろう」
と、その人の可能性に関心を持つ。
そして、
その成長の過程に時間やお金や心を寄せる。
それは、
芸術家にとって大きな力になります。
人は、
「完全だから」支えられるのではなく、
未熟さを抱えながらも、
それを克服しようと葛藤し、
前に進もうとしている姿を
誰かに見守ってもらうことで、
さらに成長していくことがある。
そんなふうにも思います。
だから私は、
子どもたちのレッスンでも、
「できていないこと」を責めるより、
「まだ途中なんだ」
という視点を大切にしたいと思っています。
ピアノでも同じです。
最初から音をきれいに聴ける人ばかりではありません。
リズムが苦手な子もいる。
指が思うように動かない子もいる。
楽譜を読むことに時間がかかる子もいる。
感性は豊かだけれど、
技術がまだ追いついていない子もいる。
反対に、
指はよく動くけれど、
音楽を感じ取ることには
時間がかかる子もいる。
それぞれ、
成長する場所と速度が違います。
だから、一つの結果だけを見て、
「才能がある」
「才能がない」
と決めつけない。
そしてこれは、
子どもだけの話ではありません。
大人になってからピアノを始める方にも、
同じことを感じます。
「若い頃にやっていないから無理」
「私は音楽の才能がない」
「楽譜が読めないから向いていない」
そんなふうに、
まだ会得していないことを
「才能の問題」にしてしまう。
でも本当は、
「まだ未熟なだけ」
なのかもしれません。
人生のコーチや、
伴走者のような存在が大切なのは、
その人に代わって成長するためではありません。
「あなたは今、成長の途中にいる」
と、その人自身が可能性を見失わないように、
隣で支えるためなのだと思います。
そして、
それは「何でも肯定する」ということでもありません。
未熟なところがあれば、
それを一緒に見つめる。
できていないところがあれば、
どうすればできるようになるのかを考える。
けれど、
「できていない」ことと、
「あなたには価値がない」ことを
決して結びつけない。
私は、そんな教育をしたいと思っています。
私自身も、
レッスンをしながら過去の自分を振り返ります。
「あの時の私に、
こんな言葉をかけてくれる人がいたら」
と思うことがあります。
だから今、
ピアノを教える時には、
「できるようにさせる」
だけではなく、
自分の可能性を、
自分で見失わない人になってほしい
と思っています。
ピアノを学ぶことは、
音符を読めるようになることだけではありません。
できないことに出会った時、
どう自分と向き合うか。
失敗した時、
どう考えるか。
人と比べて落ち込んだ時、
どう自分を立て直すか。
そして、
「まだできない」ことと、
「自分には価値がない」ことを
混同しないこと。
それも、
音楽から学べる大切なことの一つだと思っています。
完全であることに安心しすぎない。
けれど、
自分を責めるために未熟さを見るのでもない。
「私はまだ未熟だ」
と認めながら、
「だから、これから学べる」
「だから、変わっていける」
と思えること。
そして、
そんな成長の途中にいる自分や誰かを、
温かく見守り、支えてくれる人がいること。
それは、
芸術においても、
教育においても、
人生においても、
とても大きな力になるのではないでしょうか。
才能がないのではなく、
まだ未熟なだけ。
その視点を持てるだけで、
人生にはもう一度、
挑戦できる余白が生まれるのではないでしょうか。
私自身も、まだまだ未熟です。
だからこそ、
ピアノから、
心理から、
教育から、
そして人との関わりから、
これからも学び続けていきたいと思っています。
