(ウマが合う合わない

というレベルの話ではなく)


加害者が被害者に対して

まず


謝罪


がなければ

許しもない


許す前提に

まず

加害側が罪を認めなくてはならない


リップサービスでなく

心からの公の発言でなければならない。


心からの態度であれば

意味もあり

それなりの重みもある


心から罪を認め

反省していることが

こちらにも伝わってくること


でも

それだけで十分ということではない

それだけで全てが解決するわけではないが


これは

仲直りするための基本的な条件だと思う…


ナチスの強制収容所から生還した

ヴィクトール・フランクル

のインタビューの発言です。



実は

ナチス側の人でさえも

自分が生命の危険に脅かされながら

何とか

この状況からユダヤ人を救おうと

できる限りのことをした人たちもいた。


お金、権力、名声

全てが抜け落ち

健康や幸せも

本質的でないものが

全て溶け去ったとき


その人がどういう人間であるのか

ということがわかる。


数少ない生還者として

自分が生き延びたことへの

罪悪感の苦しみを乗り越え

加害者側への怨みを抱えて生きたくない

と葛藤しながら


およそ

人間とは思えない

獣のような者たちにさえ

理解を示そうとする姿勢


精神科医、心理学者

としても

非常に優れた方だったのだな

と思います。


ー私は

人間というより

良心の働かない

獣に近い攻撃的な人とは

できるだけ距離を取りますー



かつての神学校が

自分を省みることのできない

攻撃的な獣を育てた。


指導的立場の人間が

自分を省みることのできない人たちでしたから。


神学教育の失敗例だとも思っています。


悔い改めという福音体験を

重要視する

福音派の流れにいながら

罪を認める

という大前提の世界が理解できていない

自己認識が弱すぎる牧師たち。


我々の指導の仕方はよかったと

その指導を受けた人たちも

それをそのまま踏襲し


それをしない

今の神学校は…と

神学校の責任を持っていた夫を

批判、攻撃し

神学がおかしいと言いふらし

(本人にいいなよ、ちゃんと

正当性があること説明してくれるからね)


ちゃんと然るべきところに相談し、

報告し

手順を踏んで

問題だらけだった神学校を何とかしてきたのに

院長が独断で勝手なことしてるとか

誹謗中傷して回った牧師たち。


教師会がすったもんだしてるのは

きちんとまとめられない院長の責任だ

と言いふらしている人たち

自分たちが引っ掻き回している張本人なのに。


自分のしてしまった都合の悪いことは隠し

カモフラージュするために

院長をスケープゴードにして

悪口言って回る。


ホントに牧師ですか?

クリスチャンですか?

というレベルでした。


そして

安芸高田市の市議会みたいに

攻撃が目的の

何も建て上がらない

それ大事?

今そんな攻撃してる場合じゃないでしょという

トンチンカンな攻撃

教師会や教団総会で聞きながら

情けないらやら、恥ずかしいやら

でした。


ー当時の神学校は

ハラスメントの巣窟で

私も

被害者の一人でしたー


反省しない人たちによって

育てられたから


仕方がないのかもしれません。


でも

ここまできたら

自己責任ですよ。






フランクルは

生き残った者として

声をあげ続ける責任がある

犠牲者に代わって語り継ぐ

行動の義務を感じている


と述べていました。


私も責任を感じることがあります。


フランクルのような強さ、力が欲しい

と思いつつ


できることをしていきたいと思います。