合理性の追求は悪いことではないと思います。


如何に効率よく事を運んでいくか

いつも考えます。


そして

人を動かす強力ツールは

お金


お金は

労働の対価としてとか

必要なもの、欲しいものと交換するための道具

だったはずが


労働力としては大差ない人間の中で

巨万の富を得る人もいれば

貧困に喘ぐ人もいる


富のある人が

自分の思い通りに人を動かす


善良で賢い人に富が預けられていれば

世の中よくなり

そうでない人が富を預かると

苦しむ人は救われない。


獣のような

弱肉強食社会

から距離を取ることができるはずの


宗教や芸術も


資本主義社会に飲み込まれてしまっている


そんな風に感じていました。


AIの発達によって

超合理化の実現に向かっています。


我々が

崇高に

人間らしく幸せに生きるために

活用されて欲しいと願います。


また

労働の対価としてのお金


という概念が

ベーシックインカムなどで

薄れていくこと


私はいいことだと思ったりしています。


金にならないことはしない


この発想は人間性を失いやすい

と思っていますので。


内側からでてくる

〇〇したい

という思いを押し殺して生きる

ことに慣れてしまっている大人


〇〇したい🟰遊び、グウタラ発想

ばかりではないはずなのですが。


私は、周囲から求められることをすることが

社会で生きていく術だと

どこか思っていた節があります。


心身を壊し

臨床心理士の助けをいただいて

自分の心と向き合う作業をした時


「あなたは、今何が一番したいですか?」

との質問に、答えられなかった。


私の頭の中で

〇〇をしたら迷惑かけるかな

とか

△△したらいい顔されないだろうな

いまさら

□□なんて無理でしょ?

とかいう思考が


〇〇したい


という内側から湧き出てくるものを

無意識に押し返していたため

何がしたいのか

認識するのに

時間がかかったことを思い出しながら


お金になるか否か

社会にどう受け取られるか


気にしすぎて

私らしさ

つまり人間らしさ


を見失っていた頃を思い出します。


他者より抜きん出たい

という動機が強かったり

コンコルド効果みたいに

過去してきた浪費、労力を無駄にしたくないという心理からくる

〇〇したいは

人工的なものだったりするので

再考する必要があるかもしれませんが

(他者の足を引っ張ってまでポジションを得ようとか

踏みにじって、深く傷つけたり困らせたりする

ことに鈍感な

〇〇したいは

人工的に作られた〇〇したいであって

社会貢献には繋がらなかったりします)


〇〇したい

という思いが

内側からのエネルギーになり

その思いが

社会貢献に繋げられれば

結果的に

仕事にもなる。


自分と向き合って

クラッシック音楽がもう一度したい


という思いに気づき


そのエネルギーで

演奏活動を始め

現在は

ピアノ教室に力を入れるようになっている。


クラッシック音楽がしたい


ー人工的に作られた思い

ではなく

どうしてこんな思いがあるのだろうか?

と思うほどの強い思いでしたー


という思いの中には


私自身が

クラッシック音楽によって育まれた

人格の成長や

教育的価値を体験的に感じできたことがあり


クラッシック音楽が

そういったものに繋がり

結果的に

社会貢献に繋がる

仕事になった。


そういうこと

だと思います。


ロボットみたいに合理的に仕事ができる人間作りをしてきた日本。


AIの発達に伴い

教育の見直しが叫ばれていながら

あんまり内実的には進んでいない


という印象です。


芸術の追求は

自分らしさの追求でもあります。


私にとって


自分が

本当のところ

何をどう感じているのか

その想いをどう表現し

満たしていくか。


そういった

人間性を

豊かにしていけるツールでもあります。


趣味にしていただくのにも

オススメの世界だと感じています。


レッスンをしていて思うこと


同じ人がいない

みんな違うな…と


なので

すぐに矯正しにかからないことを心がけています。


存分に表現していただき

表現の仕方を共に学んでいく


感じるままの音楽に気づく

そしてそれを尊ぶから

表現の仕方に向かえる。


子どもさんとの

普段の会話のやりとりも

できるだけ

その子らしくいられるように を

心がけています。


いのちの泉が湧き出る

人間味豊かな

エネルギーに満ちた人生を

共に送っていきたいと

思っているからです。


そして

自分を押し殺して生きる苦しみを

知っているからこそ

同じ苦しみを味わって欲しくない

という思いも

原動力になっていると思います。