この人は善人なのか悪人なのか

付き合って大丈夫なのか否か

一緒に仕事して大丈夫なのか

見極めるって難しい


私にとって悪人でも

(謂れのない攻撃を受けたり

策略によって貶められて被害を被らされる)

他の人にとって善人に映ることもある


実際に自分が攻撃されるまでは

正体が

わからなかったりもします。


若い頃

レッスンで

「あなたは、天才か?と思うような演奏をしたかと思えば、何だ、ただのバカだったんだ。

と思うような演奏をする。

まるでジキルとハイドだ。

だから

あなたを教えるのは怖くなることがある」


と言われたことを思い出しながら



一人の人の中に

悪人の世界に足を踏み入れる瞬間があり

悔い改めて善人に戻る瞬間がある

行き来するのが人間なのかな?


そう思えるから

どんなに酷い仕打ちを受けても

いつか目が覚めて

善人に戻ることがあるかもしれないと

信じ過ぎて

逃げずにやられ続け

再起不能になる程

痛めつけられるまで

気づかない

なんてことに陥ったりする。


聖書は

義人はいない

一人もいない


と言っていますが


罪に抗って生きなければ

たちまち罪に呑まれる世界

なのかもしれない

と思います。


事なかれ主義も

悪に加担していること


イジメを見てみぬふりすれば

後に罰せられる社会になりました。


とことん愛

であられる神の力と知恵にすがりつつ

キリストの十字架を仰ぎつつ

悪に抗って生きる


大切にしたい生き方です。


「オッペンハイマー」

という映画を観ました。


原爆の父


とも呼ばれた物理学者


戦争の抑止力になると考えて開発した原爆


まさか

実際に人間のいるところに落とす

とは思わなかった。


広島と長崎に投下されたことを知り


戦後の

水爆開発に反対したことから

公職追放された方の人生が

綴られていました。


三時間にわたる映画


映画の前半は

予備知識が無さ過ぎて

何のことやら…

登場人物も顔が似てて

あれ?

この人はさっきの人?

みたいに混乱してたり

物理のこと、化学のことわからな過ぎて

?????


でしたが

後半になると

組織の闇が垣間見えて…


トルーマン大統領の前でオッペンハイマーが

「大統領、私は自分の手が血塗られたように感じます」

と言った時に

それに対して憤慨し

彼のことを

「泣き虫」と罵る場面は

強烈でした。


トルーマン大統領ってかなりのワルだったのね

ってわかったり

それに乗っかって

組織でのしあがるために


オッペンハイマーを

スパイに仕立て上げ(事実無根だったようです)

公職追放に追いやった

ストロー?みたいな名前のお偉いさん

組織にいるいる🫢

って思いながら観ていました。


私利私欲

既得権益の貪り


人としての

尊厳を捨ててまで


悪に染まっていく

悪に呑み込まれていく様を見ながら


自己認識を深め

どこかで

踏み止まる


ということが

人として

崇高な生き方ができる境目になるのかな?


キリストが十字架上で

「この人たちは自分が何をしているのか

わかっていないのです」と言ったように


自己認識の欠落は

悪に呑み込まれる要因になりそう


なんて思いました。


若い頃は

何者かになることを追いかけていましたが


社会に認められる何者か

を追いかけて

悪に呑み込まれてしまわないように


自己認識を深め

自分の内的世界の成長を大切にしながら

目の前のこと

自分のピアノ上達のために

地道に励み

仕事を誠実にこなしていく


そんな人生を送りたい


と強く思った映画でした。