言葉が発達したことで

思考の世界は深まり、それが文明の発展に

繋がった


でも

言葉による便利なコミュニケーションツールによって、人間の感覚機能は鈍ってきた


と言われています。


感じる 世界


言葉を介するよりも

認識は不確かであやふやなので

蔑ろにしがちだなと


でも

蔑ろにすると

生きる喜び、エネルギーを消してしまう


音楽は

鈍ってしまいがちな

感覚機能を呼び覚ます働きがある


けれども

その音楽も

理性で聴く傾向が

クラッシック音楽に蔓延っている気がします。


人間の心の深みが表現されているはずの

クラッシック音楽なのに。


私も

音楽の聴き方は

意識的に分けて聴くようにしていました。


学びのスイッチを入れて聴く時と(理性を働かせて聴く時と)

純粋に音を感じながら聴く時と(感覚機能を呼び覚ますために聴く時と)



クルレンツィスの第九は

私の中のそういった垣根を取っ払って

理性も自然に働きながら

純粋に音楽を感じられる


言語すら音として心に届く(よくわかんないドイツ語だからかも🫢ですが…)


本来の人間の機能が

存分に活かされながら

味わえる


私にとっては

生きる喜びをストレートに実感できる音楽


だと思います。


最後に合唱や四重唱に歌詞があり

その歌詞と音楽が

(歌詞の内容も素晴らしいですし)

理性と感覚が自然に融合するように

奏でられている


ベートーヴェンの偉大さと共に

クルレンツィスとムジカ・エテルナが

それを見事に音にしてくれている


だから

私の生きるエネルギーになっているのかと。





公衆の場は

知らない人々の中に身を置く状況


互いに言葉を交わして

コミュニケーションをとることはできない


でも

人となりを感じられると

嬉しくなることがあります。


小さな子どもさんが

突然歌い出す場面なんかは

親御さんは公衆の場だからと止めてしまいますが

私は聴かせてもらいたいなぁ

と思っていたりします。


泣いていたり

ぐずっている場面でさえ(もちろん、親御さんは大変だと思いますが)

そこに人となりが感じられるので

私の心が豊かにされていくことを

実感していたりします。


子どもさんは

理性より

純粋に感覚で生きられますので

その心地よい感覚から

歌が自然に出たんだろうな 


不快な感覚だから

泣いてたり、ぐずってたりするんだなぁと

私の感覚機能が

呼び覚まされていく。



駅ピアノも

イルカが音波でコミュニケーションするように

音楽で人を感じられる

豊かな世界

のはず。



音楽は感覚という

本能的な

そして深い人間性を感じられる

良いツールだと思っています。


生徒さんが弾かれる

発表会を聴くのが好きなのも

人となりが感じられるから。


レッスンでは

上達のお手伝いなので

理性を働かせて上手くなる道筋を立てていく必要が

ありますが


それが

人となりを消してしまう方向に行かないよう

気をつけたいと思っています。


発表会は

上手いとか

下手とかで聴かず


お一人お一人の音から

人となりを感じていたい


といつも思っています。


私自身の感覚機能を呼び覚ましていくためにも。