愚かな生き方について

最近思い巡らしています。


優秀な学位を持っているはずの人々が

愚かな生き方をしていたりするのは何故なのか?


疑問でした。


学位(知的能力)と賢さは別物なのかも知れない


と思うようになりました。


聖書の記述に

最高の学位を持っていた優秀なパウロ

という人物の言葉があります。


「私たちも以前は愚かで…

悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ

互いに憎み合う者でした」


パウロはキリストに出会い

そういった

愚かな生き方を改めていこうという

伝道者になりました。


ベートーヴェンの第九の合唱の歌詞


あなた(神)の不思議な力が

私たちを再び結びつける

生き方が違ってしまっている私たちを


友と友の繋がりを得た人たちは

大いなる幸せに恵まれた人たち

(信頼できる人たちとの繋がりは

私にとって宝です)



このシラーの詩に感銘を受けたベートーヴェンも

愚かで怠惰な人たちによって

虐げられ、苦しめられてきた


戦争だって

人間の愚かさの最たるもの。

未だに、愚かさの歴史を繰り返しています


ユダヤ人らが

キリストを救い主と認めなかった

それも十字架刑という残虐な刑で

本当の救いを握りつぶしてしまったのは


救い主とは

軍事力によって

自分たちイスラエルのユートピアを

実現してくれる人のことだったから。



この愚かは

知的能力のことを必ずしも言っているのではないと

思います。


キリストは

知的能力に優れた

パリサイ人、律法学者(宗教家)たちに対して


杯や皿の外側はきよめるが

その内側は強欲と邪悪で満ちている

人々には負いきれない荷物を負わせるが

自分はその荷物に指一本触れようとしない

知識の鍵を取り上げて

自分は入らず、入ろうとする人たちを

妨げている


愚かな人たち…


と牽制している記述があります。


これに怒り

言いがかりをつけて

キリストを十字架につけた人々が

彼らでした。


罪の根は

ここにある


間違った(愚かな)生き方をしてしまっていること


ー罪は

原語で

的外れ

という意味があるそうですー


虐げられてきた人の音楽が

人の心を打つ

のはこの心の奥の

スピリチュアルな世界に届くから

なのだと思います。


黒人霊歌や

ロマ音楽(流浪の民の音楽)


は虐げられてきた人の

叫びであり


ベートーヴェンは

それを乗り越え

歓喜に変えた


あなた方は跪いて(ひざまずいて)いるか?


というシラーの詩


表面的に祈りの儀式、礼拝の儀式はするけれど

心はそしてその生き方は

神を畏れていない

跪いていない

いのちを失った教会、そして政治。



権力を欲し

それを神と民の前に責任を果たす

という姿勢ではなく

私利私欲ために使う


歴史に悪王と名が刻まれるのに。

宗教家たちも

聖書に悪人として記述され

残されている。


こんな生き方をしないように

という見本として。


愚かな生き方だと思います。


そんな悶々とした中での

あの

クルレンツィスの第九


私に希望と力と喜びを与えてくれました。


そして

エネルギーチャージに

よく聴いています!


今日もエネルギーチャージして

お仕事頑張ります💪