商業化が効率化と結びつきすぎると

教育の場合は問題が発生するような気がします。


教育は効率化とは真逆であるべきという感覚が私の中にあります。

人間は機械じゃない。


人間関係に効率化を求めれば

人間性が失われる


私は研究者ではないので、データがどうこうではなく、直感的にそう思います。


人間の能力は複雑で多種

一部の能力だけ伸ばそうとして、人格教育が疎かになっている気がしています。


人間は機械じゃない

切れば血のでる生身の人間。


人間科学の治験も意味がありますが、あまり取り入れられていない感触です。


音楽は効率で測れない世界

音楽でさえ科学するのが難しいですから。


何が言いたいか。

教育はスキルも大切ですが、

やはり、

「教育者の側が人格の成長を日々しているか」

の方が大切な気がしています。


いかに楽に教育するかではなく

ある意味、教育者側が

身を削る

ことを厭わないというか…。



完璧な人間なんていません。

ですので日々成長している(身を削ること)

が大切だと思っています。


教育スキルの教材は溢れています。

アイディアが湧くと嬉しくて試します。


でもそれはあくまで、生徒さんという人間と教師という生身の人間関係の構築の中での媒体として用いる。


ですので、

先生も成長しているんだ(生身の人間なんだ)

という姿を感じてもらうことは

大切だと思っています。


そして

私はわかっている

あなたはわかっていない

スタンスにならないように気をつけています。


私はわかっている


そうやって、マウントを取らないように気をつけています。


具体的には、

・どう思う?と質問形にする

(こうすべき、ではなく)

・〜を意識して弾いてみようか

(間違った認識を指摘するとき)

・実は先生も昔はできなかった

(挑戦を促すとき)

・こうやって弾くと弾きやすいよ

(なるべく、あなたの弾き方はおかしいというメッセージにならないように)

みたいなアプローチを心がけています。


結果的にコンクールで入賞したとか

自他ともに目に見える成果の商業化についても

人格教育という面では距離を取りたいと思っています。


マウントの取り合いになる恐れが拭えません。


コンクール入賞が目的になると

音楽による人格教育はどうしてもおろそかになってしまうので。

というか私は自信がありません。


最終的にピアノが上達する

ということは譲りませんが

ピアノ上達を媒体にして、

やはり、その方に何が必要か

ということを総合的に考えながら

ともに成長していきたいと思っています。