マーラーの交響曲についての記事を続けます。
第2番「復活」、第3番「夏の交響曲」と、
声楽を伴う巨大な作品が続いた後、
「今度もまたどのような大作が誕生するのだろうか」
という期待(と不安?)を抱きながら、
固唾を呑んで初演に臨んだ当時のミュンヘンの聴衆は、
大きな肩透かしを食らうことになったのです。
第1番「巨人」とほぼ同じ程度の、演奏時間55分規模の
4楽章構成の交響曲に落ち着いたのです。
実際に、ミュンヘンでの初演では、
終演後にブーイングが飛び交ったそうです。
第1楽章は、“19世紀終盤に蘇ったモーツァルト” のような
雰囲気の疑似古典派的な佇まいが印象的な可憐な楽想が
総体的に支配します。しかし、そのソナタ形式の扱いは、
やはりマーラー流ソナタ形式を多少省略しつつも
大筋においてトレースしていきます。
後に終楽章の楽想の予告であると判る
鈴の音を交えた軽やかな音色の
オーケストレーションによる導入句や、
3楽章のクライマックスの先取りを盛り込んだ
楽想の展開等は、やはりマーラー流れの楽曲構成の手口です。
しかし、「復活」や「夏の交響曲」の第一楽章のような
スペクタクルな冒頭楽章を期待していた聴衆は、
全く意表を突かれる思いであったことでしょう。
第2楽章はマーラー流のスケルツォです。
ABABAcodaといった常識的な構成の外見ですが、
コンサートマスターが半音高く調弦された楽器の持ち替えて、
独奏者的な活躍を与えられながら進行する独自性も持っていて、
「死神の踊り」のようなイメージも感じられる楽章です。
第3楽章は、厳かな緩徐楽章です。
ベートーヴェン「第9」の第三楽章、
ブルックナー「第8」「第9」の第三楽章、
後年のマーラーの「第6/悲劇的」の第三楽章
といったタイプに分類される深淵な楽章と言えるでしょう。
実は想いの他小振りな終楽章が
この後に続いていることを勘案すると、
この緩徐楽章の中に現れる壮大なクライマックスは、
フィナーレの要素を併せ持っていると
考えられるのではないでしょうか。
そして、最後はその問題の第4楽章です。
何と、演奏時間10分にも満たない歌曲仕立てなのです。
歌詞に「少年の魔法の角笛」を用いて、
最初は「天上の生活」というタイトルで
単独楽章として発表されたものです。
当初は交響曲第3番の第7楽章に置かれる計画もありました。
しかし結局、第3番の第6楽章が拡大したので、
第7楽章は構想から削除されました。
そして、今度は6楽章構成の「交響曲第4番」の
終楽章「天上の生活」として次なる構想に組み込まれましたが、
紆余曲折の末、4楽章構成の終楽章に落ち着いたという
なかなか興味深い経緯があります。
この交響曲は、しばしば「大いなる歓びの讃歌」
という副題を付せられますが、
これはマーラー自身の言で全くなく、
本来は「天上の生活」と言われるべきものと考えます。
また、第2番と第3番と併せて
「角笛三部作」として括られることも多々ありますが、
「復活」との共通点はあまり認められませんし、
むしろ第5番との共通項が目立ちます。
ですから、「復活」「夏の交響曲」グループと
後続の「器楽三部作」第5~7番を繋ぐ、
過渡期の作品と捉えることが相当と言えるでしょう。
マーラーの交響曲の中では最も規模の小さい作品であるため、
マーラー受容の黎明期から演奏回数には恵まれた作品でした。
しかし、第3番でも第8番でも頻繁に演奏されるようになった
21世紀の今日においては、逆に評価の別れる問題作として
再認識されているのではないでしょうか。
LPレコードの時代から沢山の名盤がリリースされていますが、
ここでは敢えて問題盤を紹介しておきましょう。
レナード・バーンスタインの1987年録音盤です。
何と、終楽章の独唱にボーイソプラノを起用しているのです。
発売当初は随分と話題になりました。
指揮=レナード・バーンスタイン指揮
管弦楽=アムステルダム・コンセルトへボウ
ボーイ・ソプラノ=ヘルムート・ヴィテック
グラモフォン / F32G-20256
第2番「復活」、第3番「夏の交響曲」と、
声楽を伴う巨大な作品が続いた後、
「今度もまたどのような大作が誕生するのだろうか」
という期待(と不安?)を抱きながら、
固唾を呑んで初演に臨んだ当時のミュンヘンの聴衆は、
大きな肩透かしを食らうことになったのです。
第1番「巨人」とほぼ同じ程度の、演奏時間55分規模の
4楽章構成の交響曲に落ち着いたのです。
実際に、ミュンヘンでの初演では、
終演後にブーイングが飛び交ったそうです。
第1楽章は、“19世紀終盤に蘇ったモーツァルト” のような
雰囲気の疑似古典派的な佇まいが印象的な可憐な楽想が
総体的に支配します。しかし、そのソナタ形式の扱いは、
やはりマーラー流ソナタ形式を多少省略しつつも
大筋においてトレースしていきます。
後に終楽章の楽想の予告であると判る
鈴の音を交えた軽やかな音色の
オーケストレーションによる導入句や、
3楽章のクライマックスの先取りを盛り込んだ
楽想の展開等は、やはりマーラー流れの楽曲構成の手口です。
しかし、「復活」や「夏の交響曲」の第一楽章のような
スペクタクルな冒頭楽章を期待していた聴衆は、
全く意表を突かれる思いであったことでしょう。
第2楽章はマーラー流のスケルツォです。
ABABAcodaといった常識的な構成の外見ですが、
コンサートマスターが半音高く調弦された楽器の持ち替えて、
独奏者的な活躍を与えられながら進行する独自性も持っていて、
「死神の踊り」のようなイメージも感じられる楽章です。
第3楽章は、厳かな緩徐楽章です。
ベートーヴェン「第9」の第三楽章、
ブルックナー「第8」「第9」の第三楽章、
後年のマーラーの「第6/悲劇的」の第三楽章
といったタイプに分類される深淵な楽章と言えるでしょう。
実は想いの他小振りな終楽章が
この後に続いていることを勘案すると、
この緩徐楽章の中に現れる壮大なクライマックスは、
フィナーレの要素を併せ持っていると
考えられるのではないでしょうか。
そして、最後はその問題の第4楽章です。
何と、演奏時間10分にも満たない歌曲仕立てなのです。
歌詞に「少年の魔法の角笛」を用いて、
最初は「天上の生活」というタイトルで
単独楽章として発表されたものです。
当初は交響曲第3番の第7楽章に置かれる計画もありました。
しかし結局、第3番の第6楽章が拡大したので、
第7楽章は構想から削除されました。
そして、今度は6楽章構成の「交響曲第4番」の
終楽章「天上の生活」として次なる構想に組み込まれましたが、
紆余曲折の末、4楽章構成の終楽章に落ち着いたという
なかなか興味深い経緯があります。
この交響曲は、しばしば「大いなる歓びの讃歌」
という副題を付せられますが、
これはマーラー自身の言で全くなく、
本来は「天上の生活」と言われるべきものと考えます。
また、第2番と第3番と併せて
「角笛三部作」として括られることも多々ありますが、
「復活」との共通点はあまり認められませんし、
むしろ第5番との共通項が目立ちます。
ですから、「復活」「夏の交響曲」グループと
後続の「器楽三部作」第5~7番を繋ぐ、
過渡期の作品と捉えることが相当と言えるでしょう。
マーラーの交響曲の中では最も規模の小さい作品であるため、
マーラー受容の黎明期から演奏回数には恵まれた作品でした。
しかし、第3番でも第8番でも頻繁に演奏されるようになった
21世紀の今日においては、逆に評価の別れる問題作として
再認識されているのではないでしょうか。
LPレコードの時代から沢山の名盤がリリースされていますが、
ここでは敢えて問題盤を紹介しておきましょう。
レナード・バーンスタインの1987年録音盤です。
何と、終楽章の独唱にボーイソプラノを起用しているのです。
発売当初は随分と話題になりました。
指揮=レナード・バーンスタイン指揮
管弦楽=アムステルダム・コンセルトへボウ
ボーイ・ソプラノ=ヘルムート・ヴィテック
グラモフォン / F32G-20256