改めて過去記事を

アップしてみたいと思います。

今回のアップに際して

画像は新しいものに変更しています。

 

2022年8月忘日

 

あるブロ友さんの記事で

男はつらいよ、ピアノと話題が続きました。

そこから思い出したことです。

徒然なるままに……

 

母は何故笑い過ぎて 死にそうになったか

いきなり大袈裟なタイトルを掲げてみましたが

これは現在の母ではなく

今から44年前、我が家で起こった

他愛ない出来事ですので

どうか安心してお気楽に読んでみてください 

 

夕食も済んだ後、寛ぎながら

テレビのロードショー

男はつらいよ第11作 寅次郎忘れな草を

見ていたときのことです。

両親は男はつらいよ、が大好きで

テレビ放映があると夫婦揃って

見ていることが多かったのです。

以下、記憶頼りなので

内容の細部に違いがあったらご容赦ください。

 

例によって旅から帰ってきた寅さん

いきなり妹夫婦の嘆きを耳にします。

『ピアノが欲しいけれど高くて買えないね』

寅さんは

「なんだ、博(前田吟)は額に汗して

毎日働いているのにピアノ一つ買えないのか」

 

そこでさっそくピアノを買ってきて、

妹夫妻にプレゼントして

満面の笑顔で得意がるのですが

それは当然グランドピアノではなく

安っぽい赤いオモチャのピアノ

だったのです。

 

 

さて、困惑したのは妹夫妻を始め

とらやの人たちです。

ぎこちなく一本指で鍵盤を叩き続けて

すっかり有頂天な寅さん

ご機嫌を損ねないように

大袈裟に喜んでみせていました。

 

ここでいきなり登場するのがタコ社長です。

空気の読めない彼は

「何だ寅がピアノ買ってきたっていうから

見に来たけれど、オモチャじゃないか」

さぁ大変です。

寅さんは真実を知り

大恥をかいたとばかり

「何だひとこと言ってくれりゃいいじゃないかよ」

とぶんむくれて修羅場状態になります。

 

ここまでは定番かも知れませんw

 

ここで前田吟が一言

大真面目な顔でこう言ったのです。

 

『兄さん、僕たちが欲しかったのは

この(オモチャの)ピアノ

だったんですよ』

 

いきなり大きな咳き込みが聞こえました。

母が笑いすぎて、飲んでいたお茶を

気管につまらせたのです。

最初のご縁じゃない誤嚥です。

余りに酷いので救急車を呼ぼうか

と父が心配したくらい。

何とか事なきを得ましたが

翌日病院には行ったそうで

恥ずかしいので理由は言えなかったとかw

 

ところで、桂枝雀師匠の笑いの理論に

緊張の緩和というのがあります。

緊張と緩和ではありません、です。

この2つは似て非なるものだというのは

後ほど書きます。

 

 

結構奥深い理論

上っ面だけで、深部まで正しく理解

出来ている自信はないんですがw

上記のケースでも当てはまるように思います。

 

まず寅さんがオモチャのピアノを買ってきて

「緊張」

これを何とかしようとしてとらやの人たちが

取り繕うのが

「緩和」

ところがタコ社長の乱入で以前より更に

「緊張」

ここまででもなかなかよく出来ています。

更にダメ押しとばかり

最後に出てくるのが前田吟です。

彼が大真面目に吐くセリフで

「大緩和」

ここでジェットコースターのように

あえて緊張させて即緩和を

繰り返された観客の感情に

一気に畳みかけたのです。

生真面目な母もどうしようもなくなったのです。

 

笑いというのは、これみよがしじゃなくとも

前田吟の(大映ドラマで見せたのとは全く違う)

極めて普通の演技で大きな笑い

「緊張の緩和」

よく練り込まれた脚本から

生み出されるんですね。

 

 

さて「緊張緩和」と「緊張と緩和」とは

大違いと書きました。

ブログも緩和から緊張

またまた堅苦しい話題で申し訳ないですが

 

※過去記事下矢印 よろしかったらクリックしてみてね

 

疫学の概念で小池都知事が一気に広めた

ハンマー&ダンスは

緊張緩和の典型です。

規制と規制解除を繰り返すという概念。

 

またまたしつこいですが

私は当初から八割おじさんが

接触率の概念を曖昧にしてきたことに

苦言を呈してきました。

 

上矢印この記事でも書いてきたとおり

数値を過大に錯覚させたまま

あえて放置してしまった、その姿勢こそが

いわば緊張の緊張、さらなる引き締め

自粛警察や過度なタイサクに見られる

こわばった空気を生み出す根本になった

と私は思うのです。

 

大切だったのは

タイサクの基本理念であった

緊張と緩和よりも、むしろ

緊張緩和 だったのではないでしょうか。

国民に丁寧な説明をし誤解を解き

緊張の中にも適度な緩和

余白をもった生活をさせる。

おそらくセンセイは国民の理解力を侮っていて

手綱を緩めたくなかったのでしょう。

エボラのような超強毒で

短期の被害を最小限に抑えるためなら

四の五の言わず緊張の緊張も分かるのです。

しかし比較すれば弱毒のCOVID19で

その姿勢を長期に及び持続するのは

御法度だったと私は思うのです。

 

緊張の緩和で与えられる笑いが

生きるためには欠かせないのと同様です。

誤解でこわばった空気を持続させたら

人間は到底もたないものなのです。

 

タイサクの多くが、心理学的・社会学的にも

好ましくないと指摘する人は多いでしょう。

私は肝心な数学的・統計学的にも

矛盾を抱えていたと思います。

カオスなものを線形的

極めて単純にとらえすぎたんじゃないかと。

 

ここで望まれるのは

男はつらいよじゃないですが

優れた脚本家ですよね。

申し訳ないですが

センモンカやイセイシャ、キョーシなど

上に立つ人たちは得てして

緊張の緊張、引き締めばかりに

目をつり上げながら走りがちだと思うのです。

それが如実にあらわになった2年間と

言えるような気がします。

 

翻って卑近なところに目を転じ我々自身も。

近頃二進の会(維新の会)の擡頭や

ひろゆき氏の論破などがもてはやされています。

心に余裕がなくなっていませんか。

論破だ勝ったとドヤ顔するのがエライという空気

徹底的に論破するのではなくって

相手に逃げ道を用意するのも大事です。

ネットトラブルをみるにつけ

これを強く感じるのです。

 

緊張のなかにも緩和

今の世の中で忘れ去られがち

ではないでしょうか。

どんなときにも余裕は必要です。

常に近視眼的ではなくって

俯瞰的な立場で冷静に対応できる

指導者が増えることを望んで止みません。

これみよがしじゃなくって

自然な感覚を我々も受け入れたいものです。

 

緊張の中には

必ず緩和がなきゃ 

あカンワ