やっぱり哀が足りないと思うな。

愛ではなく哀。

 

愛は施してやる「上から目線

は人間誰しもが行き着く最終地点。

「差別なきバリアフリー視線

 

言うまでもなく植松某の優生思想

がないよな。

ヤツはあの非道な行為を

愛の裏返しだとさえ思っている。

自分は絶対にああはならぬという

見下しの傲岸。愛は時として

それが混じることがある。

暴力と表裏一体。

暴力とは何も植松某の行為だけじゃぁないよ。

配慮なき現世はまさに暴力。

我が身に胸を当て振り返っても

少しは心当たりがある。

 

オモシロス。哀がないな。

これもヤツは特別な立場で

愛を施しているつもり

かも知れないが哀なき愛

なぞ受ける方が大迷惑なんだな。

 

、つまり衰えを遅らせるための知恵

これは人間が長い間築き上げてきた

叡智なんだよ、散歩や運動はまさにそれ。

これを頭ごなしに押さえつけておいて、

タイサクによる衰えの可能性は一刀両断

『ありえぬ、噴飯物、

オモシロス』と全否定

この態度を何とも思わぬ

セケンはいささか狂ってはいないかい。

 

決して極論ではない。

オモシロスと言い切る学者

己の価値観のみで他は全排除の

植松某とどこが違うんだい。

正義の衣をまとい、シコーテーシのセケンと

無意識のうち悪魔合体しやすい

オモシロスの方が

よほどオソロシス

 

申し訳ないが口をついて出る最初の言葉が

「マスクつけてください」

面会もマトモに出来ない。

 

勿論愛はあるのだろう、

しかしこの現状に接する私めといたしましては

6月中旬で未だにオモシロスに従う

介護の現場にがあるとは

到底思えないんだよ。

 

どこか上から目線

他人事に思ってませんか

少しでも自分の未来の姿だという

自覚がありますか

あればオモシロスに未だに従うなんてことは

絶対にないはずなんだよ。

それともシコーテーシですか?

マスクには絶大な効果があるから

少々のことはガマンしませうってか。

それこそがないんだよ。

未来の衰えた自分に対する想像力がない。

結局は己に帰ってくるんだな。

メリットとデメリット

もう一度冷静になってよく考えてみよう。

さえあれば自ずと答えが導けるはずだ。

 

何回も繰り返してきた

不自由を障害に変えない

不幸にして病気が早い内に発症して

不自由を抱えてしまうこともある。

しかし早いか遅いかの差であって

結局はみんな大なり小なり

不自由を抱えるんだよ。

そう発想の転換は出来ませんかね。

 

人間はどう喘いだって死に向かって

衰えながら生きている。

大事なのは自分もいずれ抱えるであろう

不自由を目くじら立てて

取り除くことではなくって

障害に変えず共存していくこと。

これみよがしな上から目線の愛ではなく

人間誰しもがたどる衰えに対する

 

しかしこれも書いたけれど

中年太りした自分のために

子どもにワクチンをうたせると比喩した

忽那を始め倒錯した自己愛に塗れた

シドーシャが多すぎないか。

太り続ける自堕落さを竹山さんに演じて欲しい

とほざいたオモシロスも同じだな。

あのね、貴方たちが太るのはカラスの勝手で

哀じゃなくって自己愛

だらしないだけなんだよ。

 

衰えに対する哀ってのはまず自助。

敢えて言えば「生きる手応え」

これに邁進するのだって人生。

基本的人権の一つで、

これを公助やら共助で

糊塗した脅迫で

侵害しちゃ絶対にならないんだ

ところが、あなたたちはそれを端から放棄して

それどころか他者にもムリヤリ放棄させて

やせる努力、自助は一切なく

公助や共助に真っ先に求めたわけだが

本末転倒してるだろ。

 

やせるやせないに焦点を当ててしまうと

矮小化させてかつ下品になる可能性があるな。

ここで医療に置き換える。科学的根拠なき

カンセンタイサクを一律に押しつけるのは

医療現場の自助放棄なんだよ。

今回のような弱毒感染症の場合、

カンセンタイサクは各々の人生プランに

基づき自由であるべきだったのが

センモンカのセンノーで

それを許さなかったわけだな。

で、最も唾棄すべき勝手に作られた「正義」

「仕方がない」のシコーテーシに押し潰されて

何も言えぬ悲劇が続くわけだ。

 

こんな基本的な事も分からぬ

ノータリンに3年も支配されて

未だに抜け出せないとはね。

 

更に大事なことには

基本的人権の否定を伴う重大事にも拘わらず

「科学的根拠」「メリット」

などハッキリしていなかったってこと。

『デメリット』だったら

権威という先入観さえ捨て去れば

ミドリムシだって理解出来るだろ。

これを仕方ないって思い込む

セケンって一体何なの???

 

私自身はこんな当たり前が理解出来ない

リクツさえ通じぬディストピアは

今後一切拒否するつもりだ。

独りになり次第ね。

 

40年程前、小生が大学生の頃

「バードンシェアリング」

って言葉がやたら蔓延っていた。

あれは防衛負担の分散だったが今こそだな。

ユニットが国家だとかデカくなればなるほど

こういった標語って矛盾に満ちたアジテートに

つながるわけだが、単位をごく小さくすれば

非常に有意義な標語になるんだな。

これってSIRモデルの矛盾でも述べた

数学の概念にも通じるな。

 

つまり、負担を集めずに分担する。

これを国家という概念に当てはめるから

うまく行かないのであって

「家族」とか小さな単位だとうまくいくんだな。

これを端から放棄して、国家に丸投げする風潮

頼りすぎる風潮が、この3年だとも言えるな。

 

我が家の場合、介護は出来るだけ「家族」で

これがバードンシェアリング。

勿論出来ぬ人に求めるのは悪夢だが

出来る人を揶揄するのだって

それ以上の悪夢なんだよ。

我が家は問題なく完結していたはずなのに

突如降って湧いたコロナソードー

テンケー的な全体主義がそれを許さなかった。

 

ピッタリマスクが出来ぬ事については

相手の否・約束破りでも冷たくあしらわれたし

本当に助けが欲しいとき

私が3~4日静養に努めたいときは

「コロナコワイコワイ」

2類指定の弊害でそれが適わなかった。

普段は頑張っている介護者だって

4000日もあれば3~4日

具合が悪いときだってある、それが

全く許されない世の中はヤッパリ変だよ

いざという時だけ頼れるシステムがあれば

ウレシイが果たしてこれがワガママ

なんだろうか。

 

とことん感覚がズレていたし、

残念ながら今でもそれを感じる。

施設は多くの人を見る故の大変さ

個人にはそれがないから感覚が違うんだな。

私が重大事と考えぬ事が公的には重大事

一方でのっぴきならぬ事態は放置。

私の未熟さ、判断ミスで

もう後戻りが出来ない状態になってしまったが

個人でしていた介護のメリットを

今痛感しているところだな。

 

結局は負担の分散でなく集中のシステム

バードンシェアの概念が全くない

それどころか忌避する世の風潮が

産んだ弊害とも言えるんだな。

 

世はそれで良いのかも知れない。

しかし、繰り返しでシツコイが

私は断固として拒否する。

 

『人間を自由にできるのは、

人間の理性だけである。
人間の生活は、理性を失えば失うほど

ますます不自由になる。』

いかりや長介 トルストイ

 

理性の最上位に

意識すべきかも