☆ 9/6千賀滉大投手ノーヒットノーラン!

9回にやや制球を乱し2四球を与え、1ダウン1,3塁のピンチを招いたものの、最後まで直球の威力は衰えず、フォークもキレキレで後続2人を討ち取ったのにはシビレましたね、お見事拍手

 

 ホークス球団史上2人目と言うのにビックリ。1人目は戦前1リーグ時代、別所昭(毅彦)さんなのも感慨深い。野村克也さんは、杉浦忠、スタンカ、皆川睦雄、の大投手を擁しながら、その機会に一度も恵まれなかったわけで、野球の神様も随分意地悪なのだなぁと思います。

 

☆ 別所さんはプロ野球ニュースでご意見番・球界の大久保彦左衛門とも呼ばれ、ガハハの高笑いとともにジャイアンツびいきの解説をしている印象が強いですが、そもそもは南海の大エース。1949年に「別所引き抜き事件」が起こりジャイアンツに移籍、以降12年間221勝を積み重ねるわけですが、1949年の巨人ー南海戦は「遺恨試合」と呼ばれ、独特の雰囲気があったそうです。

 

 黒澤明さんの映画「野良犬(1949年公開)」には、約12分間後楽園球場の野球シーンが登場します。選ばれたのは巨人ー阪神戦ではなく巨人ー南海戦。野球好きの拳銃ブローカーを球場で待ち構えて逮捕するというシーンなのですが、遺恨試合の様相を呈したこの組み合わせの方が、時代を反映したより緊迫した画が撮れると考えたからだと言われていますね。

 

 昔は普通に行われていて、試合前の見世物になっていたというトスバッティング、7回のセブンスイニングストレッチのシーン、試合は別所引き抜き後、エースになった新人武末悉昌のピッチングなどが画かれています。

 

 

 

☆ 9/8 作家安部譲二さんの訃報。

 彼は大変なプロ野球ファンでしたね。デイリースポーツで2009年まで20年近く「懲りない編集長」というコラムを担当していました。勝ち負けのみに執着してやりたい放題のジャイアンツに失望して、ジャイアンツをコテンパンに打ちのめすことこそが、野球界の発展につながると考えておられ、ジャイアンツに歯が立たないタイガースには歯に衣着せぬ厳しいスタンス、一方で日本シリーズでジャイアンツに煮え湯を飲ますパリーグチームに拍手喝采、とりわけ87年、クロマティの隙を突いて一気に一塁から本塁を駆け抜けた辻発彦選手を大絶賛されていて、歴代ベストナインにも選び、史上最高のプレーとも評されていました。一時は私もデイリースポーツの愛読者であったわけですが、真っ先に目を通すのが氏のコラムでした。

 

 「プロ野球死んでもらいます」も89年に上梓されていて、これは名著、プロ野球に対する愛が溢れています。一部抜粋してみます、野良犬にも登場した武末悉昌投手のエピソードです。

   

 

 あれはわたしがまだ小学生の昭和24年、場所は後楽園球場です。南海ホークス対読売ジャイアンツの試合でした。(中略)9回の裏ジャイアンツの攻撃1ダウンでした。ジャイアンツはそれまで、下手投げから胸元に浮き上がる速球と、バッターの内外に自在に曲がるカーブ・シュートを投げ分ける武末に、完封されていて、後楽園を埋め尽くした巨人ファンは、もちろん武末の好投にも舌を巻きましたが、シャットアウトされそうなジャイアンツにもイライラしてました。小学生の私もです。

  今のようにトランペットや鳴り物を持ち込んで、絶え間なく騒音を続ける応援団は、その頃はいませんでした。一瞬の静寂がグラウンドを支配したとき、わたしは野次りました。

「こら、ドジョウすくい、上から投げてみろ」

そうしたらマウンドでサインをのぞき込んでいたアンダースローピッチャーの武末は、眼鏡を光らせて野次をした方を見て、右手の指を1本立てて「1球だけだぞ」というふうに振って見せたのです。

 そして、振りかぶって1球だけ、ギクシャクしたぎこちないフォームで、サブマリンの武末は上から投げました。それがストライクかボールだったかも、バッターが誰だったかもわたしは覚えてません。(中略)その試合は、ジャイアンツがそのまま武末にシャットアウトされて負けましたが、水道橋の駅に向かう後楽園を埋めた巨人ファンは、みんなその武末の上から投げた1球、野次に応えて1球だけ投げたオーバースローのピッチングを話し合いながら家路についたものです。

 

以上、抜粋終了。

マスター注:1949年、武末投手の後楽園先発は2試合でいずれも南海の負け。ただ、11/26の試合で6回からリリーフ登板、9回裏までの4イニングを零封、南海は7-1で逃げ切っています (当時はセーブという概念がありませんでしたが、現在ならセーブがつきます。) 

 おそらくこの試合で実際にあった出来事かと思われます^^

 

 さて武末悉昌さん、49年は最多奪三振、21勝を挙げたものの、不運なケガもあり通算49勝46敗でした。しかし日本のアンダースローの魁でもあり、まさに記憶に残る投手だったんでしょう。

 

 後年は西鉄ライオンズのスカウトを務め、ある名プレーヤーを発掘しています。場所は武末さんが、安部譲二さんにかつてヤジを飛ばされた後楽園球場、都市対抗野球でした。一人の小柄な遊撃手が早いイニングにエラーを犯します。その悔しさからか若者はイニングの合間に、ひたすら守備練習をしていました。その姿にピンときてドラフト指名を決めたと言います。その選手こそが、1972年西鉄ライオンズドラフト3位、真弓明信さんです。

 

 スカウトの事と言えば、プロ野球死んでもらいます にはこんな記述があります。

「みんなでスカウトを表彰しよう!」

 オールスターゲームに、ファン投票でも、監督推薦でも、ドラフト外の選手が選ばれたら、その選手の担当スカウトにみんなでお礼をしようという趣旨です。実際にファイターズの松浦宏明投手がオールスターに出たときに、担当の三沢今朝治スカウトに氏は記念品を贈ったそうです。

 

 さて、またまた冒頭に戻って千賀滉大投手です。育成選手初の大快挙、安部譲二さんならどう表現されたでしょうか。彼の発掘に関わったのが、地元のスポーツ用品店店主だと知ったらどんな反応をされるでしょう。彼の無邪気な笑顔を思い浮かべながら、謹んで哀悼の意を表します。