7/14の記事で触れた1976年

タイガースのレギュラーメンバー。

この年のチーム打率は.258、

チーム本塁打は193、得点は602。

得点602はリーグ2位、

トップは優勝した巨人の661。

 

対して1985年優勝時の

チーム打率.285  本塁打219、得点731。

得点は2位(順位は3位)の

巨人を115点も引き離し、ダントツ。

これに比べれば

76年は大きく見劣りするものです。

 

にもかかわらず85年ではなく76年のメンバーが最強であると評する人もいます。これは一体何故でしょう?

1つは下位打線が85年に比べ76年の方が怖さがあること。

2つめには、これは1つめともリンクしますが、85年は7,8番だった遊撃手・捕手が、76年はリーグを代表する好打者・強打者であったこと。

 

ですが、最も大きな要因は21歳の成長株・掛布雅之がいたことでしょう。これはアラサーの成熟した打者が中心だった85年との大きな違いでもあります。76年頃は「阪神相撲部屋」という表現が堂々と使われていた時代、彼の攻守はチームを鼓舞する、新鮮さがありました。

 

前年(2年目)は打率.246、11本塁打、大した成績には見えないかも知れません。当時もそれほど騒がれていませんでした。が、今になって振り返るとこれは大変な数字だったのです。

 

今年スワローズの村上選手が、高卒2年目での2桁本塁打を達成して話題になりました。ドラフト制以降というカギ括弧付きですが、これの第一号達成者が75年の掛布選手です。達成者はこれまで掛布、清原、松井秀、大谷、森友哉、村上のたった6人、他の5人はみなドラフト1位ですから、掛布選手の凄さが分かっていただけると思います。

 

76年の開幕は7番打者でスタートし、口の悪い広島(開幕相手)の解説者K山J郎さんは、彼が8番でなく7番を打っていたことをせせら笑っていたことを、未だに鮮明に覚えています。

 

それを更に嘲笑うかのように急成長を遂げた彼は春先から打ちまくりました。この変わった名前の、期待値の低かった選手の台頭に当時のスタンドは熱狂! と言っても今のような超満員ではなく、巨人戦以外は閑散とした状態だったのですが、彼の躍動する姿に自然と「カケフ、カケフ」とかけ声がかかりました。同時期に広島でも「浩二コール」が起きていて、どちらが先かは定かではないですが、いわゆる○○コールの先駆けとなったわけです。

 

なんと言っても、高卒わずか3年目でOPS1越えですよ、みなさん。鳴り物入りの清原・松井選手でさえ初達成は4年目、張本選手が4年目、王選手でさえ5年目、イチロー選手は未達成。NPB最年少達成者で未だ破られていない記録ですから、これで活気づかないわけがありません。

 

7番打者からスタートし、時には8番を打つこともありましたが、中盤以降は6番打者に定着、藤田平選手が故障した終盤には2番打者に繰り上がりました。今でいうトラウトとか筒香を43年前に、それも21歳の若者が務めていたわけですから、その果てしない期待感は言葉では言い表せないほどだったことは想像していただけると思います。

 

あれから43年、タイガースには当時の掛布選手のような二十歳前後で、中軸を担えるような若者が全く現れません。92年の新庄選手がやはり3年目の20歳、あのときは優勝争い以上にワクワクしたのですが、打者としては伸び悩んだのは否めません。それでも、数字以上に印象に残るプレーで充分楽しませてくれたので、個人的には満足してはいます^^

あとは打者ではありませんが01年の井川慶投手、4年目でしたが彼の力強いピッチングにも胸躍らせましたね。

 そろそろ、あのワクワク感も味わってみたいものです。

 

ドラフト制以降高卒選手が最も台頭しないタイガース、少し前の記事でも、高卒規定打席・規定投球回到達者数が、他を引き離し断然ビリ(ダンビリ)と書きました。これは理屈では計り知れない「何か」があるはずです。しかし掛布さんは、このタイガースにおいて、球史でもほとんど見られないような鮮烈な成長を遂げたプレーヤーなのです。タイガースという特殊な難しい土壌で、野球に打ち込むために必要な「何か」を体得していた数少ない方だったはずです。彼が志半ばで、二軍監督を解かれたのは未だに残念に思っています。