ずっと感じてきた「冷たい空気」。
園の先生から、ある保護者から、知人の中にある妙なよそよそしさ。
無視されているわけではない。
でも、歓迎されていない感じ。
まるで、そこに“いてはいけない存在”のような目線。
私はずっと、自分のせいだと思っていた。
「私が不器用だからかな」
「何か気まずくさせたのかもしれない」
「もっと愛想よくしないと」
そんなふうに自分を責めてきた。
でも昨日、ふと繋がった。
元パートナーと親しい保護者、教育関係者、知人たち——
彼らは多分、私のことを一方的な“ストーリー”で見ている。
「自分は子育てを頑張るシングルファザーで、彼女はネグレクトしている」
「育児に関わらなかった母親」「情緒的に不安定」
そういう物語。
私はそこにいなかった。
だから、訂正することも、説明することもできなかった。
ただ、勝手に評価され、信頼を失い、沈黙の中で孤立させられていった。
それは私の過去と同じ構造だった。
子どもの頃、家の中で誰かが「悪者」にされると、
周りはそのストーリーに従って振る舞い、
私は何も言わせてもらえなかった。
黙っていることが“安全”だと信じ込まされていた。
でも、今は違う。
私は黙っていたんじゃない。
黙らされていたんだ。
当時の担任の先生のことを思い出す。
なんとなく、よそよそしく、どこか冷たかった。
でも私はその感覚を否定し、「きっと気のせい」と思おうとしていた。
“感じる私が間違っている”と思い込もうとしていた。
けれど今ならわかる。
その空気の背後には、
誰かから流された「私に関する情報」があったのかもしれない。
私は孤立していたんじゃない。
孤立“させられて”いたんだ。
その仕組みに、私はずっと乗せられてきた。
“私がここにいてはいけない”
“私は迷惑をかける存在なんだ”
“目立たない方がいい”
そうやって、自分の声も、存在も、静かに殺していた。
でももう、終わりにしたい。
私は悪くなかった。
私は、ただ守ろうとしていただけだった。
私の声は、届かないようにされていただけ。
でも今は、自分の声を、私が聞いている。
そしてそれを、こうして記録していく。
誰かの評価で奪われた“私の価値”は、
誰かの目に映る“母親像”では測れない。
私がどれほどの愛を、どれほどの痛みの中で注いできたか。
それは、私と子だけが知っている。
ソフィア