私はまたやらかした?


“トラウマの声”と生きるということ


一昨日、私はある友達に、元夫との間で起きているタックスの問題について話しました。

その友達は、元夫と共通の知人だということも分かっていました。話すべきかどうか、ずっと迷っていたんです。


でも、「この人になら聞いてもらいたい」と思いました。

孤独に抱えてきたものを、ほんの少しだけ外に出してみたかった。


ところがその次の日、ふとした瞬間に、胸がキュンと強く締めつけられました。


やばい。私、またやらかした。

なんであんなこと言っちゃったんだろう。

きっと彼女は、元夫に伝える。

そしたらまた私は責められる。

また全部、私が悪いことになる。

また、裏切られる。


頭の中で、ものすごいスピードで言葉が駆け巡って、

心臓はバクバクして、呼吸が浅くなって、目の前がグラグラするような感覚になりました。


でもそのとき、私ははっきりと気づいたんです。


これ、私じゃない。

今、私に話しかけてるのは、トラウマなんだって。


幼い頃から信じた人に裏切られた記憶。

頼ったら、逆に傷つけられた記憶。

正直になったら、責められた記憶。


その全部がひとつの「声」になって、

私にこうささやいてくる。


黙っておけ。

信じたら終わる。

話したお前が悪いんだ。


でもその声に、私は昨日、ちゃんと気づけました。


私は「話したいから話した」。

「信じてみたいから話した」。

たとえ裏切られたとしても、それは“選んだ私”が悪いんじゃない。

それは「私が生きなおそうとしている証」。


怖さはある。

けれど、怖さの横に立ってる“今の私”も、ちゃんとここにいる。


そして、私は気づいたんです。

もしあの声に従っていたら、きっとまた私は「人は信用できない」「もう誰とも関わらない」と殻にこもっていた。

それは、私のいつものパターン。


でも私は、そのパターンを抜け出したかった。


人を信じたい。

もちろん、この世界には悪意を持つ人もいる。傷つけてくる人もいる。

でも、それでも、私は「この人はそうではない」と感じた。

それを信じてみたかった。


それが「パターンを超える」ということなんだと、昨日、あらためてわかった。


やらかしたんじゃない。

私は、自分の“本当の望み”に正直だっただけなんだ。


ソフィア