娘の楽しそうな声を聞いたとき、
「お父さんといるときのあの笑顔、ほんとに嬉しそうだな」って思った。
それを見ていたら、
「私は引いた方がいいのかもしれない」
って、ふと、心のどこかがささやいた。
私は運転免許も持っていないし、
いろんなところに連れていけるわけじゃない。
お金だって限られてる。
娘を“楽しませる力”は私には足りないのかもしれない——
そんなふうに思ったとき、
「私が引けば、娘はもっと楽しく過ごせるのかも」
「私が邪魔しない方が、うまくいくのかも」
って、気づけばその考えが心に根を下ろし始めていた。
でも、その声。
よくよく聞いたら、あれは昔から何度も聞いてきた声だった。
あのときの私も、いつもそう言ってた。
「私が我慢すればいい」
「私が消えれば、みんなうまくいく」
「私さえ黙っていれば、怒られない」
親の顔色をうかがって、
空気を読みすぎて、
誰にも迷惑をかけないように、自分の存在を小さくして。
それが、生きるための唯一の選択だったから。
でも今もまだ、
そのときの“生き残りの知恵”が、私を引き戻そうとしてくる。
まるで“優しさ”を装ったように、
「あなたが引けば丸く収まるよ」って。
でも、その声の正体は——
**インナークリティクス(自分責めの声)**だった。
あの声は、「私が悪い」にすり替える天才だ。
子どもが笑っていたら、
「私が出ていくと笑うんだ」と思わせてくる。
何かがうまくいっていないとき、
「きっと私がいるから」と囁いてくる。
そして最終的には、
「私はいない方がいい」というところに連れていこうとする。
でも私はもう、あの頃の私じゃない。
あの声に、完全にのまれそうになったとき、
「これ、インナークリティクス(自分責めの声)じゃない?」って
気づける自分が、今ここにいる。
私は娘にとって、“楽しさ”を与えるだけの存在じゃない。
「安心」や「共感」や「感情に寄り添う力」を届けている。
それは、目には見えないけれど、
確実に彼女の中に根を下ろしていくものだと信じている。
私は、引かなくていい。
私は、消えなくていい。
私は、私として、ここにいていい。
この声がまた来たら、
「それはあなたの意見だね」って静かに言って、
私は私の真ん中に戻る。
同じような声に苦しんでいる人がいたら、
その“やさしいふりをした声”の正体を、
どうか一緒に見破っていこう。
それはあなたを守るふりをして、
本当はあなたを小さくする、古い仕組みかもしれないから。
Sofia
