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ふぃろノート

哲学とは何だろう?それは、知を愛する営み、とよく言われる。では、誰が知を愛するのだろう?職業哲学家だろうか?このブログの答えは、「そんなの誰でも」だ。哲学は、あらゆる人に開かれているべきだ。これは、ぼくの読書記録と哲学に対する考えを、ゆる~く綴った日記。

続きだよ~。

 

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2.「良心の疾しさ」の起源

 

しかし、単に「よい」「わるい」を「善」と「悪」にすげ替えるだけであれば、キリスト教はなぜ人々の心にまで原罪の観念を植え付けたのだろうか。

もう少し深い詮索が必要なようだ。

 

(a)人間の最も根本的な欲求は、苦しめること

 

ニーチェは、世界を突き動かす根本的な衝動を、力への意志(あるいは、権力への意志)だと見ている。

より高貴な存在へ、より強力な存在へ、より健康な存在へ、より美しい存在へと向かう意志、これが世界の根源だと見ている。

そして、高貴な存在は、自分より劣った貧弱で下賤な存在を、苦しめることに快感を見出すというのだ。

刑罰の起源も、この苦しめることに端を発する。

目は見ることを目的とし、手は掴むことを目的とする。

それと同じように、刑罰にも目的(例えば、犯罪の抑止、罪人の更生、など)があると考えるのは誤りだ。

前史時代、刑罰とはただひたすら強者が弱者を苦しめる以上の、何物でもなかった。

最古の国家における法律、それは、強者の、最上の権力の眼から見て、何が許され何が禁じられるべきかについての「命令的な宣言」(87ページ)にすぎなかった。

そして、その暴力的な法律により裁かれ罰を受ける弱者は、「良心の疾しさ」を感じることもなく、刑罰を甘受した。

前史時代、「良心の疾しさ」などというものは存在しなかった。

刑罰を受ける者の心にあるのは「思いがけなくまずいことになった」という感じだけであり、「自分はあんなことをすべきでなかった」という感じなどは生じない(97ページ)。

刑罰は「人間を手なずけはしても、人間を「より善く」はしない」(97ページ)。

では、「良心の疾しさ」は、一体どこから生まれたのだろうか。

 

(b)「良心の疾しさ」を生んだのは、内向きの攻撃性

 

ここで、一つの矛盾が生じる。

人間は力への意志によって常に導かれている。

前史時代、そして、最古の国家において、強者は力への意志を存分に発揮した。

しかし、強者の暴政の前になすすべもなかった弱者は、力への意志をどこに向けたのか。

自分自身へと向けたのだ、というのがニーチェの答えだ。

強者に抗うことができない弱者は、出口を求めてさまよう自らの攻撃性を、自分自身へと、内側へと転じることによって、それを解消したというのだ。

つまり、「良心の疾しさ」は、自由の本能、力への意志から生まれた、能動的な、毒を持った果実だった。

自分自身を責め、苛み、痛めつけ、苦しめることで得られる能動的な愉悦、それこそが「良心の疾しさ」の正体だ。

すなわち、「この悦びは残忍の一種なのだ」(103~104ページ)。

「良心の疾しさ」はついに宗教的な意味を帯び始める。

自らを苛むことに快感を見出した人間は、神を生みだし、創造物である神の前で自らの絶対的無価値に嘆く。

そうした神は、偶像以外の何物でもなかった。

「人間獣が行為の野獣たることを少しでも妨げられるとき、奴は何を思いつくことか!どんな途轍もないことが、どんな乱心の発作が、どんな観念の野獣性が直ちに勃起することか!」(110ページ)。

こうして、自らの攻撃性の捌け口を自分自身に求めた人間は、その内攻した攻撃性によって、ついに自らに苦しむ者と成り果てた。

 

 

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まだ続くよ~。