これで『道徳の系譜』は最終回だよ~。
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4.『道徳の系譜』について思ったこと
(a)反駁の難しさ
『道徳の系譜』では、日ごろ我々が信じている(いや、より厳密に言うとキリスト教世界の道徳で信じられている)「善と悪」が、実際は強い人間が定めた「よい」と「わるい」という道徳的価値に対する「反感(resentiment)」によって創作された彼岸物にすぎないと主張されている。
隣人愛、善きサマリア人などに象徴される善行は、実際は「反感」が生み出した病的な吐しゃ物に過ぎないことが看破されている。
この「反感」が生み出した病気は人類を疲弊させ、より病弱にし、輝きを失わせ、醜悪にするものとして描かれている。
そして、強い人間が法を創り、弱者を支配する、より健康的で美しい世界がやって来ることを、超人の到来と共に期待している雰囲気が本書には漂っている。
しかし、そうは言っても、「よい」「わるい」の前史的な、強い人間が弱い人間を虐げることが「よい」こととされ、高貴なこととされる世界は好ましいのか。
例えば、障害を負っている人は(目が見えない、歩けないといった人は)、障害のない人と殴り合いのケンカをした時、ほぼ確実に負ける。
それは、「戦い(bellum)」においては、障害者は弱者に分類される可能性が非常に高い、というか、慎重な表現をやめれば、障害者は弱者になるということだ。
だが、もし超人の到来した世において、その弱者を苦しめるためだけに責めさいなむことが「よし」とされたならば、弱者はただ強者の布いた法によって、無意義に苦しむことを余儀なくされる。
そして、それに反抗することは、原理上できない。
何故なら、虐げられているのは弱者であり、強者に勝つことはあり得ないからだ。
もちろん、強者が「恩赦」によって、弱者をいじめないことを「よし」とすることもあり得よう。
だが、ニーチェの描く前史的な時代を認めてしまっては、強者の暴政を認めないわけにはいかない。
もし、障害の有無に関わらず、あなたがその世界で弱者とされてしまえば、殺されたって嫌とは言えない。
こうした弱肉強食の世界に対して、「道徳的な立場から」反駁することは不可能だ。
「それは善くないのでは」などと言うことは、間違ってもできない。
「それは、あなたが弱者だから、強者に対して精神的な復讐を加えるために「善くないのでは」などと言っているだけで、それは彼岸の論理、或いは、病弱な人間の抱く単なる「反感(resentiment)」にすぎない」と、切り返されるに違いない。
我々が日常的に考えている人権、ヒューマニズム、「道徳」の立場から、ニーチェの描く前史的な世界に否と言うことはできないのだ。
何故なら、その我々の「道徳」がひっくり返されてしまっているのだから。
そういう意味で、反駁が難しい本だと思った。
(不可能というわけではなく、難しい。それだけひっくり返されてしまっている。)
(b)民主主義について
本書の中で、ニーチェは何度か、民主主義について批判を加えている。
理由は、自明と思われるが、強い人間が支配する世界(ニーチェはこの前史的な世界が再び到来することを夢見ているように思う)と民主主義はどう考えても相容れないからだ。
つまり、民主主義は弱々しい、病弱な、うらなりの人間どもが、何故か強い人間まで一緒くたにして統治してしまう謎の政体、というよりは、人間を衰退させる禍々しい政体だと捉えた。
それはつまり、既に充分病的な人間から、強さと輝きをますます奪い取ってしまうということになる。
民主主義は人間を<美>から遠ざけるから害悪だ、というのがニーチェの大方思っているところだろうか。
反対に、プラトンは『国家』の中で、政体を5つに分類した。
かなりはしょるけど、一番いいのは哲人の治める世界。
民主主義は、4番目にいい政体とされた(つまり、下から2番目、いい政体というか、どちらかというと悪い政体)。
その理由は簡単だ。
人間は、よほどの才能を付与されていない限り、何が善で何が悪かということを知ることはできないというのがプラトンの根本的な考えだ。
哲人となりうる限られた人間は、優れた哲学的トレーニングによってそれを知り得るかもしれないが、パンピー(一般人、のことだよ。笑)にはそんなこと万に一つにも不可能だ。
パンピーはどっちかと言うと、欲望に目を曇らされているから、何が正しいかなんてわかりっこない。
パンピーは大人しく、哲人が教えてくれる正しい道を、素直に聞いているがよろしい。
哲人統治こそが、パンピーが正しく生きられる唯一の道だ。
むしろ、パンピーたちが自分たちを統治するとなったら大変だ。
欲望に目を曇らされ、何が正しいか全然わかってない人たちが民主主義なんておっぱじめようものなら、その政治共同体が欲望によって突き動かされ、正しい状態からどんどん遠のいてしまう。
民主主義は人間を<善>から遠ざけるから害悪だ。
これが、プラトンの大方思っていたところだろう。
なんか、似ている。笑
(c)強い人間が、何を欲するか
強い人間は、自らと、自らの行いを「よい」とすることで、新しい正義を打ち立てる。
つまり、強い人の欲望が、そのまま正義になる。
このこと自体に疑念を挿むことが、我々の「道徳」の立場からはかなり難しいことは(a)で述べた。
でも、何を欲望するのだろう。
強い人間は、何を欲するのだろう。
これで、「アメリカの大統領になること」なんて言ったら、ただのお笑いだ。
一体、強い人間は、その人自身の暮らす世界の構造から、自由になれるのだろうか。
超人がこんなことを言うのかは知らないが、試しに「青は『よい』」と日本語で言わせてみよう。
これは、greenとblueが「よい」という意味なのだろうか。
それとも、blueがよくて、greenは関係ないのだろうか。
何かの本で読んだが、アフリカのある地域には、色に関する名前を二つしか持たない民族があるという。
二つの色とは、「明るい色」と「暗い色」だ。
その民族の人に「青は『よい』」と言って、意味が伝わるだろうか。
超人は何語をしゃべるのだろう。
超人は、自らの言語の制約を超えることはできるのだろうか。
言語に限らずとも、自らの暮らす世界を超えていけるのだろうか。
「コーラが飲みたい」「漫画が読みたい」「ゲームをしたい」「パソコンはマックがいい」・・・。
時代的・地理的・言語的制約を、超人はどうやって乗り越えるのか。
そして、その欲望を規定しているのは構造でないという保証はあるのか。
もし構造が超人の欲望を規定するというのであれば、超人とは一体何者なのか。
超人が何が「よい」もので何が「わるい」ものかを決めることが、構造を離れて一体可能なのか。
大体、ニーチェが『道徳の系譜』自体の根拠にしているのはなんとも曖昧なニーチェ流言語学だが、gut(よい)とschlecht(わるい)だってドイツ語だ。
超人はドイツ語で語るのか?
超人は、非歴史的存在でありうるのか?
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以上、ニーチェの『道徳の系譜』(木場深定訳、岩波文庫)を読んだ。
おもしろかった~。
また次の読んだら書きます。
