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ふぃろノート

哲学とは何だろう?それは、知を愛する営み、とよく言われる。では、誰が知を愛するのだろう?職業哲学家だろうか?このブログの答えは、「そんなの誰でも」だ。哲学は、あらゆる人に開かれているべきだ。これは、ぼくの読書記録と哲学に対する考えを、ゆる~く綴った日記。

続きだよ~。

要約は今回で終わり。

次回の記事には思ったことを書きます。

 

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3.禁欲主義は何をもたらしたか?

 

(a)または、宗教は何をもたらしたか?

 

「良心の疾しさ」がもたらしたのは、むせ返るような剥き出しの苦しみ。

「理由も目的もわからずに、自己自身によって苦しめられている」(179ページ)人間に、救いの手を差し伸べたのは、禁欲主義だった。

または、宗教だった。

または、(ヨーロッパの場合には)キリスト教だった。

キリスト教は、人類が経験している苦しみに一つの解釈を与えた。

それは、我々の苦しみの原因は我々自身の中にあるという、人間は生まれながらに罪人であるという解釈。

こうして、「病人は「罪人」にされたのだ」(180ページ)。

この処置は、決して「良心の疾しさ」という病気を治癒するものではなかった。

むしろ、麻酔をかけて、苦しみを和らげること以外には、何の効果もなかった。

しかし、それでも禁欲主義は、人間が苦しむ理由を与えることによって、人間の生活を意味のあるものにした。

意味を手にした人間は、むしろ、苦痛を渇望するようにまでなった。

妄想の軛の下に、自らが生み出した麻酔薬に神経を冒されながらも、人間は苦しみに意味を見出した。

「これまで人類の上に蔓延していた呪詛は苦しみの無意義ということであって、苦しみそのものではなかった。―そして禁欲主義的理想は人類に一つの意義を提供したのだ!」(207ページ)

しかし、そこに、科学が到来した。

 

(b)または、科学は何をもたらしたか?

 

当時のヨーロッパで急速に発展した(そして現在も発展を続けている)自然科学によって、宗教的自然観はその誤謬を暴かれた。

宗教は権威を失い、「客観的な」(とされる)科学が勝利した。

しかし、それでは、科学は宗教の反対物なのだろうか。

そうではない、とニーチェは言う。

まず、科学はそれ自体で独立し得るものではない。

科学の根底には、真理の価値自体に対する信仰があり、それゆえ科学は形而上学的信仰の上に建てられている。

前提なき科学、純粋に「客観的な」科学など存在しない。

そして、真実の「過重視」(196ページ)という点では、つまり、真実を、神を問題とすることが、「全然許されてなかった」(195ページ)という点において、科学は宗教と同じ土台に立っている。

真実の過重視は、哲学が長い間無自覚に依拠していたことでもある。

その上で、科学は禁欲主義を決して弱めはしないとニーチェは指摘する。

科学的真実によると、どうやら人間は神の子ではないらしい、ということになる。

科学によって、人間は世界の中心から、神の寵愛を受けるかけがえのない地位から振り落とされ、人間は単なる動物へとなりさがってしまった。

しかし、「人間は自己の生存の謎について彼岸的な解釈を必要とすることがより少なくなったとでもいうのであるか」(198ページ)。

いや、実際、科学が禁欲主義的理想を打ち砕いたことで、むしろその理想を、苦しみや存在の無意義に対する何らかの意味づけを、麻酔を、酔狂を、夢を、幻想を、彼岸を、より一層求めるようになったのではないか。

なぜなら、「人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものである」(208ページ)から・・・。

 

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要約は以上だよ~。

次回は思ったことを書くよ~。